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宮内熊野大社春季例祭「花祭」 [熊野大社]

先日熊野大社から、北野猛先々代宮司が書かれた「熊野大社年中行事」(宮内文化史研究会 1965)をいただいた。ガリ版刷B5判52頁。神社に何冊か所蔵なっていたという。宮内文化史資料別冊として発刊された。私にとって宝の山だ。


十一章目が「花祭」となっている。以下その全文。

 

「康平年中鎮守府将軍源義家が、後三年の役に戦勝を熊野の神前に祈願した。戦火のおさまった康平6年に神恩を感謝し酬恩のまことを捧げんと景政を紀州熊野に遣わし、熊野大権現を当社に再遷宮し、このとき大刀三振、御鏡三面、金幣三本、獅子頭一頭を移し、武功戦死の者十二体を木彫にしてその冥福を祈り、三百貫文を御朱印として付し置かれ、祭式は日本第一霊権現と称号し花を挿し大鼓を打ち笛を吹き旗を立て歌舞して是を祭り、神輿渡御は天皇の御幸と同じであったと伝えられている。これが恒例となり、例年春爛漫の花の候に一山をあげて行なわれ、花まつりとよばれて社人は花をかざして舞をまい、旗を立てて天下泰平五穀の豊穣を祈ったものだ。舞は熊野舞といい、歌笛の伴奏があり凱旋を祝うにふさわしい快的なリズムであったというが、今は歌詞さえ伝わっていない。

 終戦後に神社経済の逼迫から、新年祭と鎮火祭とを吸収して五月一日に行なわれ、今は人長舞春日舞などの曲に楽人が花をかざして舞い、天下泰平五穀豊穣と商工業の繁昌と安全を祈ることになっている。」

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昨日、その花祭に行ってきました。

置賜農協の代表と地元消防団の代表による祈願文奉読があったが、「終戦後に神社経済の逼迫から、新年祭と鎮火祭とを吸収」されたことによる。花祭の白眉は二人の巫女さんによる太々神楽の奉納。カメラを構える雰囲気ではないので、下からこそっと撮った写真になりました。


今は神主家は北野家に移ったが、伊達以来の宮沢城主で直江が入ってから明治まで代々神主を務めた大津家に伝わる「熊野神社縁起」(南陽市市史編集資料第7号所収)に、「祭式ハ古例に任シ、花時二花ヲ以テ是ヲ祭リ、笛吹・鼓打・旗立・歌舞シテ祭リ、天下泰平・国民安堵ノ為メ春夏秋冬怠慢無ク大祭小祭ヲ定テ、天下永久祭ルヘシ」とあるが、このくだりは日本書紀に由来する。日本書紀神代の巻に「一書に曰はく、伊弉冉尊(イザナミノミコト)、火神を生む時に、灼かれて神退去(かむさ)りましぬ。故(かれ)、紀伊国の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土人(くにびと)、此の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦(また)花を以て祭る。又鼓吹幡旗(つつみふえはた)を用(も)て、歌い舞いて祭る。」とある。


さて実は、この大津家に伝わる縁起によれば、宮内熊野大社は「大同元年諸国一般神社仏閣建立ノ官許有リテ、紀州熊野郡有馬村峯ノ神社ヲ遷シ玉フ」となっている。その有馬村にあるのが、花の窟神社、すなわち日本書紀にいう伊弉冉尊が葬られた神社。やはり「花の時には亦花を以て祭る」ならわし。両社に共に今に伝わる花祭は、宮内熊野大社と紀州有馬を結ぶ証しといえるのではないだろうか。

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以下、20年ぐらい前に書いた文章です。


   *   *   *   *   *

●熊野大社とは

 大津家に伝わる熊野神社縁起によると、当社は「大同二年、紀州熊野郡有馬村峯ノ神社ヲ遷シ玉フ」とある。そして実は、この有馬村こそは熊野信仰にとっての一大聖地なのである。では一体、その地の神社をはるかこの陸奥に遷すとはどういうわけがあったのか.古事記、日本書紀の原典ともされ、熊野信仰についての言及も多く近年研究の進展著しい「ほつまつたゑ(秀真伝)」に即してひとつの仮説を提示してみたい。

一書に日く、伊奘冉尊(いざなみのみこと)火の神を生みたまひし時に、灼かへて神去りましき。故、紀伊の国の熊野の有馬の村に葬めまつりき。土俗(くにひと)この神の魂を祭るには、花ある時には花以ちて祭り、また鼓吹幡旗用ちて、歌ひ舞ひて祭る。(「日本書紀」巻一)

 イサナミは 有馬に納む 花と穂の 時に祀りて ココリ姫 族(やから)に告ぐる. (「ほつまつたゑ」五紋)

 現在、和歌山県熊野市有馬には洞穴を含む一大巌塊を御神体とする花の窟(いわや)神社があり、御祭神として伊奘冉尊、併せて伊奘冉尊が亡くなる原因となった火の神様軻遇突智神(かぐつちのかみ)が祀られており、日本書紀の記述からこここそが伊奘冉尊がお隠れになつた場所であり御陵の地であるとされている。しかし古事記には「神避りし伊邪那美神は出雲の国と伯耆の国との境の比婆山に葬りき」とあることから古来紀州出雲両地の関係が種々論議されてきた。ところが、日本書紀成立の養老四年(702)をさらに六百年も遡る景行天皇の時代(126年)に天皇に奉呈されたとされる「ほつまつたゑ」に「イサナミは有馬に納む」とあることによって有馬は、熊野信仰の最重要聖地としてあらためて脚光を浴びつつあるのである。
 熊野信仰はこれまで、いわゆる熊野三山・熊野三所権現、すなわち現在の本宮・新宮・那智へと向った中世院政期上皇方による熊野御幸や庶民の熊野詣を中心に、神仏混交的観点からのみ論じられてきた。しかしなぜ中世の人々が、幾多の困難を圧しての熊野詣へと駆り立てられることになったかについての明解な理解は見いだされてはいなかった。「熊野詣はいまもって歴史の謎であり、宗教の謎でもある」(豊島修「死の国・熊野」講談社現代新書)とされてきたのである。しかるに以下に述べるように「ほつまつたゑ」によってわれわれは熊野信仰の淵源を知るに至り、そのことでおのずと熊野信仰の持つ意味が明らかになってきた。

 スサ国に生む スサノオは 常に雄叫び 泣きいざち 国民(くにたみ)挫く イサナミは 世の隈(くま)なすも わが汚穢(おえ)と 民の汚穢、隈 身に受けて 守らんための 隈の宮。(「ほつまつたゑ」三紋)

<現代語訳(鳥居礼「完訳秀真伝上」八幡書店)>
 素盞の国(熊野)にてお生みになつた素盞鳴尊(すさのおのみこと)は、伊奘冉尊が月の汚血(おけ)のときにはらまれた御子であつたため、常に荒々しい叫び声をあげ、泣きわめいて人々を困らせていた。伊奘冉尊は、素盞鳴尊が世の隈となっているのも、もとはといえば、月の汚血にはらんだわが身の過ちであると思召しになり、民の汚穢隈を御みずからの身に受け、民を守ろうと熊野宮(隈の宮)をお建てになった。

 「ほつまつたゑ」の発見者でその研究に心血を注ぐ松本善之助氏は、世の中の禍を全部一身に受けて国民を守るために熊野宮を建てたイサナミノ神は大乗心の権化であり、その贖罪の精神はイエス・キリストに比されると言う。そして、仏教導入と共に、大慈大悲にして地獄の苦悩を救う千手観音がイサナミノ神に当てられたのももっともであるとされるのである。思えばわが熊野大社にも、明治の排仏棄釈によって仏の一掃が図られたにもかかわらず、なぜか千手観音のみは頑として鎮座在すのは、神様の御計らいとして故のあることなのであろう。
                      
 さて、かくのごとく紀州熊野有馬の地に淵源を持つ熊野信仰、その地にあつた神社が遠く陸奥のこの地に遷座され、そしてそれが熊野神社として、1200年にわたって信仰を集めてきたその所以は何なのかということになる。
 
 「ほつまつたゑ」によれば、当時の日高見の国、すなわち仙台多賀城を中心にしたこの東北地方こそが日本の中心であった。そしてイサナミノ神とは代々東北を治めてきたタカミムスピノ神の五代目にあたるトヨケ神の娘であった。つまりイサナミノ神のふるさとはこの東北なのである。
 そもそもイサナミの父トヨケ神とは今の伊勢外宮の御祭神豊受大神である。晩年裏日本の乱を鎮めるため東北から丹後宮津に出向き、今も元伊勢の地名の残るその地で崩御、その後東北の何処かに祀られたと「ほつまつたゑ」には記されている。そこで松本氏は、トヨケ神の御本霊が祀られたその有力候補地は出羽三山ではなかったかと考えておられる。というのは、今から1400年前、崇峻天皇の第三皇子蜂子皇子が出羽三山を開山したのは、古来豊受大神と同神とされる倉稲魂神(うがのみたまのかみ)の導きによってであると伝えられるからである。つまり、蜂子皇子による三山開山以前に豊受大神はその地に祀られていたことになる。このことからトヨケ神の娘であるイサナミも、その御霊代はふるさと陸奥に帰っていると考えることはできまいか。そしてその地が他ならぬわが熊野大社であると考えることはできまいか。紀州熊野有馬村峯ノ神社ヲ遷シ玉フ。実にこの一文は、熊野大社が伊奘冉尊の御本霊の鎮まり賜う場所であることを告げているのだ、と。
 


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