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近火御見舞いのこと [思想]

250421久保火災、山新記事.jpg
私は留守だったが、昨日の正午ごろ、直線距離にして200メートルのところで、4棟が焼けひとりが亡くなる火事があった。風もありさらに延焼の恐れもあったが、近くの住民の必死のバケツリレーもあって、なんとかここで食い止めたという。携帯で火事の情報は入っていたが、家に戻ったのはもうすっかり火事が収まった3時過ぎだった。すぐ考えねばならないのが近火のお見舞いだ。今回は類焼の家も見舞わねばならない。1000円札の捻出とのし袋の用意。「近火御見舞」の文字を書いている最中にまた消防車のサイレンが鳴り出した。消防団で火災現場にいる息子にケータイで聞くと、隣の町内の火災で、自分たち二人が先の火災の現場に残って、他はそちらへ向かったという。先の火災の現場からは200メートルぐらい、我が家からは300メートルぐらい。最近久しく火事はない。一日に続けざまなど考えにくい。思わず放火を疑った。これはボヤで収まった。コンロの火をつけたままで出勤してしまい燃えあがったということだった。隣家の人が外に出た煙を見つけ通報して小事ですんだ。それから間もなく息子から電話が来て、家のすぐ近くに赤いランプの車が停まっている。何事か見てきてくれという。こんどは50メートルほど先の十字路で交通事故だ。消防車と接触したようだ。けがはなかったという。なんという一日か。この間、我が家にもお二人から近火御見舞いをいただいた。その日の火災の恐怖を体験しなかった私には恐縮の極みだった。

近火見舞いののし袋を揃えて自転車で出た頃はもう真っ暗だった。同じ目的と見られる人が行き交う。10数軒をまわった。一つ残ったので、ボヤの家の向いの家にも行った。「寄れ」と言われてゆっくりして家に戻ったのは8時をすぎていた。

本題はここから。

息子が戻ったのは9時過ぎだった。20代後半から30代の消防団員同士で近火見舞いの是非について話してきたことを家内に言ったという。その年代にとって近火見舞いの負担は大きいというのだ。家内が「他人の不幸は蜜の味」と、私には思いがけない言葉を口にした。その意味が一瞬つかめなかったのだがすぐ呑み込めた。「火事に遭った家にお見舞いするのはそれは当然。しかし・・・」ということだ。どこまで見舞うか、近火見舞いではその線引きが大変だ。今回は私の家までもらっている。2、30年前は500円が相場だった。いつのまにか1000円になり、今は2000円にアップしつつある感じだ。私は2000円と1000円を使い分けて13軒、〆て17000円。思いがけない火事ゆえ思いがけない出費はやむを得ない、お互いさま、そう考えての金額な訳だが、決して簡単な金額ではない。若い人には割り切れないには違いない。近火見舞い不要論がこれから大勢を占めてゆくのだろうか。それがいいのか悪いのか、今の私には判断がつかない。とにかく今の思いをここに書き留めておこうと書いた。あえてジャンルを「思想」としたが、その背景にはまごうことなく経済の苦しさがある。ひたすら持てる者を利するにすぎない円安株高物価上昇を煽るアベノミクスへのいらだちが募る。日本を守ろうといいながら日本を壊していることに気がつかないのだろうか。足元からガタガタに崩れようとしている。あらためて小沢さんの「子供手当」の発想のまっとうさを思う。
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