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軍神 粕川少尉 [地元のこと]

宮内双松公園招魂碑宮内双松公園招魂碑(芳武茂介デザイン)

 

一昨日の山形新聞「季節風」欄に、(松)さんが「戦争を語り継ぐ」と題して、粕川健一少尉について書いておられる。「山形文学」第102号に寄せられた牧野房先生の「軍神 粕川健一少尉」というエッセーを読まれてのことだ。

 

粕川中尉は宮内生まれ、米沢高等工業の応用化学科卒業後陸軍入隊、昭和19127日、陸軍特攻八紘隊員として隼で出撃、フィリッピンオルモック湾で散華。享年24歳、という。


「国をあげての戦時下である。粕川少尉の死が公表された時の郷土の反響はすさまじかった。とくに、その前の出撃のおり、突入寸前だった敵船が病院船と知るや、危険をかえりみず機首をかえした行為が武士道の鑑とされ、さらに深い感動を呼んだ。当時、宮内高等女学校(現南陽高校)の国語教師であった原知一氏の作詞による『軍神粕川少尉』がひろく町民に愛唱され、軍神をたたえる熱気は近在に住んでいた少年の筆者にもひしひしと感じられたものだ。『はっきり見えた赤十字/病院船を誰がうつ/機首をめぐらすゆかしさよ』という歌詞もまだ記憶にある。」

 

招魂碑(芳武茂介画).jpg双松公園招魂碑(芳武茂介画/「100年のあゆみ」より)

 

私が小学生の頃、隣が公益質屋で、その管理人として住んでおられたのが粕川一家だった。その息子さんが特攻で散華し、軍神としてたたえられていたことを知ったのは、「宮内小学校100年のあゆみ」(昭和47年)によってだった。いまも写真屋さんとして現役の渡部邦夫さんが「軍神 粕川少尉」と題して書いておられた。書き出しは粕川少尉が出撃前に父にあてた手紙だ。

 

「既に用意万端整い、目指すは戦場です。大東亜戦の最も熾烈なる真只中に突入です。一死を以て皇恩に報ゆるのみ。私の全精神、全精力をつくして戦い抜きます。決して遅れをとる如き行動は微塵もとらぬ覚悟故御安心下さい。爾後便りは当分出さぬ事と思います故そのつもりで居ってください。親戚の皆様にも暮々もよろしく御伝えください。

母上、照男、勤、モト子の健康を祈ります。父上にも御自愛の程を切に祈ります。

最も恵まれた機会に、最も健全なる身体で大東亜の礎石たり得るは最大の幸福です。

                           健一

  父上様                                    」

 

当時渡部さんは国民学校の5年生。「戦争の何たるかも知らず、戦争の悲惨さもわからず、只日本の勝利だけを信じて、銃後の守り、食糧増産に精を出す毎日、・・・・・・(空襲警報による授業中止やら双松公園での開墾作業などで)とにかく学習・授業がなければよろこび勇んで悪ふざけに終始していた」そんなある日、

「多分朝礼の時だったと思います。近野校長先生から、粕川少尉戦死のこと、しかし自分が撃とうとした船が病院船だったため、急反転したことを聞いた時の感動は、本当に身体の震えるおもいがしたものでした。・・・街中あげてその戦果と勳を賞賛し、粕川少尉宅に”軍神粕川少尉の家”と書かれていたのが今でも頭の片すみに残っています。」

そして、最後を

「今の子供達が『戦争を知らない子供達サ』などと歌っているのを聞く時、平和なよい時代だと思うと共に、あの当時の肉親のおもいはどうだったろうかと、痛ましく思い返されることです。」と結ぶ。

 

そういえば、粕川少尉の父長一郎さんの笑った顔を思い出すことができない。いつも口をキッと一文字に結んだ厳しい顔だけが思い浮かぶ。

 


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