芦名定道先生「子どもたちの未来へー幼児期、そして人生における『祈り』の意味」 [幼稚園]
宮内幼稚園、ひいては幼児教育そのものが、日本という社会でがこれからどう未来を切り開いていったらいいのか、宮内幼稚園がどこに向かって進むのか、そのことを考えるために、宮内幼稚園のルーツ、原点を考える。そのことでたしかな方向性を見ることができるのではないか。わたしたちはどこから生まれたのか、どこに向かって進もうとしているのか。まず出発点の確認から。
《昭和26年10月宮内で講演された賀川豊彦博士より「この地に幼稚園をつくり50年後の日本を背負う若者を育てよ」の御意思を受けて昭和27年5月宮内幼稚園は開園しました。》
ここから出発して、次の順に考えてゆきます。
1.賀川豊彦
2.「祈り」について
3.宮内幼稚園の未来、将来。70周年、100周年のときの姿はどうなっているのか。その方向性。
○賀川豊彦
キリスト教思想上で非常に重要な人物
明治21年(1888)〜昭和35年(1960) 明治、大正、昭和にわたって活躍
ノーベル文学賞候補 1947、1948 全集24巻のうち後半は文学作品。
ノーベル平和賞候補 1954、1955、1956
知名度は国際的。しかし、戦後70年を経た現在賀川の名を知る人は少ない。この70年の間に、日本の社会はどうなってしまったのか。日本の社会は大きく変わった。賀川のビジョンはどこへいったのか。
賀川の活動は多面的であった。
ネット検索「賀川豊彦」 膨大な情報→ウィキペディア
《賀川豊彦は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。》
教育者としての賀川
1931(昭和6年)世田谷区上北沢松沢幼稚園開園。教育者賀川の第一歩。
神戸の貧民街で活動開始。大正12年(1923)関東大震災→救済活動。以降、東京でも活発な活動。
教育についての様々な文書が残る。その中のひとつ「幼児自然教案」。
「幼児自然教案」(1934)
年少、年中、年長それぞれのカリキュラムを立てている。
自然の中で子どもたちの教育をする。子どもたちは自然とどのような関係をもつだろうか、からの発想。
自然への関わり方の賀川の原点は、暗い家庭環境にあって、自然によって慰められていたということ。
そこから、自然の中で子どもたちを教育したいというのが出発点。当時の松沢幼稚園は自然豊かなところであったに違いない。子どもは自然とふれることで豊かな感受性を磨くことができる。自然の中で慰めを受けることができる。豊かな人間性を育てることができる・・・
1.身体感覚で自然に触れる。手で触って、目で見て・・・五感を使って・・・
→おどろき、よろこび。子どもたちは自然の中にいることが大好き。自然の中で遊ぶことで活力が与えられる。自然にふれあうことのできる空間。感動→芸術。
(体力低下←空間・時間・人間関係の不足)
2.自然の観察。自然の仕組みを知りたいと思う。→科学の発展
3.自然の中に不思議なものを発見する。
動物の飼育→兎の子どもが生まれる→親子関係。母が子を守る。
蟻の巣の観察→協力し合っている。でたらめに動いているのではない。女王蟻、兵隊蟻、食べ物を運ぶ蟻。分業。
親と子の愛情。ともに生きる。→社会性。
ひとりで生きている訳ではない。常に他人と支え合っている。子どもはこのことを学ぶ。
自然から社会性、道徳を学ぶ。
自然を教材にした幼児教育=自然教案
賀川がいろいろやっていることをたどってゆくと一つのキーワードが見えてくる。それは「愛」という言葉です。たとえば、幼児に対してどういう教育をするのか、と言った時に、たとえば、自然教案の中で最終的に到達するのは、親子の愛だった。人と人との関係、愛によって支えられた関係なわけです。
そこで彼はさらにこう考えます。そういう愛を可能にしているのは何なのか。どうして私たちは他人を愛するのか。そういう風な仕組みをもっているのか。私たちの中にはどうしてそういう心が宿っているのか、と考えたときからこう考えるわけです。それは、神によって私たちにあたえられたものである。彼の根幹はキリスト教的なものでありますから、つまりこの世界そのものが、神の恵みによってつくりあげられていて、そこから考えた時に、人と人とは、あるいは人と動物とは、どういう風な関係であるべきなのか、どういう風なつながりを本来持つべきなのか、ということを彼は土台にもっていて、それを自然教案という中で組み立てた訳です。ですから彼の自然に対するアプローチは、自然の中におどろき、すばらしさを発見する、いわば芸術的な関わりかも知れません。要するに自然は芸術の素材であるし、芸術のインスピレーションを生んでくれる訳です。で、それを展開するとそこから科学が生まれました。科学的なつながりもそこから生まれてきます。さらにそこから社会関係が、実をいうと体得されてきた訳です。動物の中には、昆虫の世界にはすばらしい協力、調和がある、その全体が、賀川にいわせれば神の愛を表している、というふうに賀川は考えたのです。ですから、賀川の自然教案の背後には、彼自身のキリスト教の信仰がある、という風に考えていいと思います。
自然の中に「美しさ」を発見する。
青空、春の恵み、星空のまたたき、インスピレーションを与える自然
科学的探求、知的好奇心をうながすもの
人間はどうのような営みを、家庭の中で、地域の中で行なうのか。
賀川の幼児教育論のポイント
自然教案→「神」に結びつける
〈脱線:賀川は子どもの叱り方について考えた人物。教えることにいろいろ苦労したのだと思う〉
「怒る」と「叱る」のちがい。
よく子どもを研究して。愛情をもって。
その子どもは何を求めているのか。スポーツで伸びないのはなぜなのか。
カッとならないような子どもとの関わりが前提。
場合によってははっきりと叱らなければならない。
教育のプロとは叱るプロであると言ってもいい。
自然をよく観る。すばらしいものを見いだそうとする。(子どもを見る目と自然教案との共通性)
賀川は常に「神」を念頭に置いて考えている。彼の場合、「神」はほとんど「愛」と同一視されている。「神」といわれるとピンと来ない人は「愛」と置き換えて考えてもらうとそれほど違和感はないのではないか。
子どもに「神」を教える→子どもに「愛」を教える→自分が愛されていることに気がつくこと
愛とは体得しなければピンとはこない。
神も同じこと。
神に愛されていることを、自然と接するなかで実感することができるだろうか。
このことを考えるにあたってのキーワード「祈り」。
賀川は幼児教育においても、祈りを非常に大事にした。
「魂の彫刻」
子どもの魂に神の姿を彫刻する。子どもに神の生命の経験を体験させる。
神を体験的にわかるように教える→愛を教える。愛されているということを体得してもらう。
「人間として成長する」
誰かと愛したり愛されたりしているといういちばん重要な人間関係。そういうことができるということが、人間として成長するということ。人格形成。人間形成。それが魂の彫刻。
どうやったら私たちは愛を感じて、それを他の人に伝えることができるのか、分けてあげることができるのか。それが魂の彫刻の問題。彼にとっては信仰の問題。彼はそこに「祈り」という問題をあてはめる。「祈り」というのは、自分が愛されているということに関係している。これが重要なポイント。
幼児教育の中で常に習慣化しなければならない。私たちは祈りということをまず身につける必要がある。身につけるにはどうするかというと、とにかく練習する。その模範型としてキリスト教では「主の祈り」がある。「主の祈り」を子どもたちに暗唱させる。
暗唱するということは教育において重要。身体の中に焼き付ける。
朝食の前に家庭の礼拝をする。子どもがいる時には子ども中心に。
祈りを身につけることによって、知らず知らずのうちに神が魂の中に入ってゆく。言い換えると、自分が愛されているということがわかる。その準備ができる。その準備ができている時に自然に触れたときに、自然のすばらしさの発見がなされる。
○芦名直道「教会生活案内」
はじめてキリスト教の礼拝に出た人がびっくりすること―みんなの前で声をあげて祈ること。
祈祷会 祈ることを目的にする集会
テーマを決める→テーマについて勉強する→端から順番に声を出して祈る→テーマをめぐって心を合わせて祈ることを通して気持ちが一つになる(心の中で思うだけでは十分ではない)
「みんなで祈る」
・神の賛美、感謝
・自分の罪のお詫び、懺悔、告白
・祈願、願い事を祈る
重要なポイント
個人の祈りから出発した場合、自分本位の祈りにとどまってしまいかねない。
ここにとどまってしまってはいけない。
だから、心をあわせる。
一緒に祈る。一緒に何かのことに関してそれぞれ何かのことに関して願いを口に出す。そうすることで、他の人がどういうことを願っているかがわかってきます。それと自分の祈りがどこかで結びついたりします。そうやってだんだんだんだん、心が一つになってゆく。それが祈りです。
さらに、そういう中で、自分はよく考えると、いろいろ不満があるけども、よく考えた結果、恵まれていることに気がついたりもするわけです。結構自分は人に愛されている、そうやって育てられ、ここまで大人になったんだ、ということがわかってくるわけですよ。決して自分だけでいろんな過去を背負って生きてきた訳ではないわけです。もちろんいろんな生い立ちがあって不幸を背負って生きておられる方もおられるとは思いますけれども、ただよく考えると、いろんなところで、人に支えられてここまでやってきた、ということがおそらくわかるんだと思います。
さて、それが先ほどから言っている「社会性」という問題。自分は実をいうと、人に支えられて、誰かに愛されて、ここにいま、自分はいる。これに気がつくこと、これが祈りということの、実際具体的な力なんですね。祈りを一つに心をあわせて祈る中において、自分がよくよく見えてくる。その時の自分は、よく考えたら、いろんな人に愛されたという自分のこれまでの一生が見えてきます。それをさらに辿って行くと、神の愛が見えてくる。こういう順番になります。ですから、祈る、愛するという問題は、非常に近い関係にある訳です。私たちは、祈るということを日々実践する、それはなんていうか(?)、そう長いものではありませんから、祈り始めるとあっという間に終わる、結構すぐに終わると思います。ただそれを毎日積み重ねることによって、あるいは教会で祈ることによって、人と祈りを共有することによって、祈り合うことによって、人に祈られているということに気がつくことによって、そこにおいて、自分は何かによって生かされている、それが自分の中に、そうだ、というかたちでわかる訳です。これが先ほどから言っている自然教案から神の問題につながる重要なポイントになります。つまり彼は、幼児教育の中ににおいて自然教案という、非常にいまから見ても独特なというか、非常にすばらしいインスピレーションを与えてくれる教案をつくっているんです。それを彼の中では、キリスト教の彼自身の祈りという問題と結びつけている。それが祈りということにおいて、今日みなさんにぜひお話ししたいと思ってやってきました。
心をあわせて祈る、これがいま、おそらく非常に重要な意味を持っている。たとえば、ここ2年ほど私たちの、おそらく日本における大問題、いろいろありましたけれども、たとえばTPPとか、いろいろありますけれども、なんといったって大問題は、隣の県、福島にある原発の問題、あるいはそこにおいて津波があったという、この大震災があった。これは私たち日本人にとって、共有している非常に切実な問題であろうという風に思います。
おそらくいま日本において何が求められているかというと、若い人たちはそれぞれ自分の生活があります。日常の生活、その中でそれぞれ自分の思いがあります。それを祈ります。もちろんこれは、キリスト教の神に対して祈るのか、あるいは仏様に祈のるか、神社に行って祈るのか、あるいはそういうことではなく、思いをお互い述べ合うのか、それはいろいろあるとは思います。ともかく自分の生活の中における、そういう祈りをする、という日常生活があると思うんです。(?)ただ、いま問題になるのは、そういうものがバラバラでいいのか、という問題が日本においてあるんだろうと思います。どうやったら日本において心を一つになるのか。心を一つにして復興するということをどうやって願うことができるのか、ということがおそらくいま日本にかかっている。ということを考えた時に、心をあわせて祈る、というのがわたしたちに大分切実な問題になっているんではないかと思います。祈る、これはそれぞれの宗教の祈り方で祈ったらいいわけですけれども、ただそこにこだわることはないのかもしれません。祈るということにおいて、願いを共有する、自分の自己本位の願いではなくて、そこでほんとうに一つに人々が交わることができるような祈りを、ともにする。ということがおそらくいま日本でいちばん重要であろうというふうに思います。
そう考えると、そういう人間になる。他人と祈りを共にできる人間になる。自然とともに生きることができるような人間になるというのが、日本のこれからの将来ということに関して、すごく重要な意味をもってくる、というふうに思います。そしてこれが、幼児教育の問題なわけです。つまり、50年後のいのち、おそらく50年後ここにいる人、私も含めてこの地上にはいないんではないかと、私は自分自身に(?)ただその時に私たちの孫、子がいるわけですよ。でその孫子がどうやってこれから日本をつくってゆくのか、地域を支えてゆくのかということを考えたときに、やはりそこで、お互いに祈ることができるような、心が一つにすることができるような、そういうことがすごく重要だろうということを感じる訳です。で、そのことが、教会、幼稚園において、子どもたちがまず身につけて欲しいことです。他人と共感できる、自然の中で生き生き生きる。そういう風な人間になってもらいたい。これが幼児教育の、おそらくは、到達するべき目標、ここを目指してゆく。賀川豊彦は、そういうふうな教育の種を宮内に播いたわけです。その種が、60年後、こういう形で、いまここに形になっている訳です。つまり、そういう幼児教育の先達が、祈りをもって播いた種が、60年後に、こういうひとつの祈りを中心とする60周年のこの催しになった、と考えれば、これから先、そのバトンを次の世代に渡す必要がありますね。そのバトンを消してはいけないわけです。ですから、このバトンを次ぎに渡すような工夫を、私たちはおそらくそれぞれの場においてやる必要があるんだろうと思います。
なんといっても、都会にないものがここにはあるはずです。まずなんといっても自然ですね。自然です。子どもたちが自然にふれあうことができる環境、これは都会では望んでも手に入れることのできない、それはおそらくはここにあると思います。それから人と人とのつながり、絆、これはおそらくは都会以上に、まあたしかに50年以上前から見ると、私たちの絆が弱くなっている可能性はあります。昔はもっと絆は強かったかもしれない。ただ都会から見れば、まだだいぶましかもしれません。・・・宮内にはそれが豊かにあって、それをなんとか教会あるいは幼稚園という核で、祈りによって人々を結びつける場によって結びつくことができれば、それはおそらく次の世代に実を結んで、何かすばらしいことが起こるんじゃあないでしょうか。
いろいろ大変なことが目白押しなのですが、発想を変えると、私たちには結構可能性がある。まだまだやれることがある、ということが見えてくるんじゃあないかとおもうわけです。となってくると、あとはどうやって心をひとつにするのか。その心がひとつになれば、おそらく、宮内幼稚園は、次の10年後にはもっとすばらしい70周年、さらに30年後には、もっと、もっともっとすばらしい100周年ということが実現できるんだろうと思います。
《基本的にキリストの奥義は「祈り」である。祈るという行為に対してこの宇宙存在が「何かを返す」。これが時に「奇跡=ミラクル」というものになるが、物理学的科学的な言い方をすれば、ある種の「作用反作用」の法則である。》
物理学者による「祈り」の意味です。具体的で貴重な記事に思えました。
《己が単に知識や教育や法律や教義や儀式の成果だけで語れば、反作用もそのレベルの答えが帰ってくるだけだが、自分が魂のレベルで語れば、相手もそれで返してくる。》
《人のためにただ祈る。》
たしかに、祈りの奥義であり、要です。
* * * * *
「キング・オブ・キングス」(1961)の「イエスの活人術」と「魂のかけら」:一寸の虫にも五分の魂
http://quasimoto.exblog.jp/23853372/
お祈りの力 ~ 私の人生に奇跡が起こり続いている!
みなさん、こんにちは。
(あ)「キング・オブ・キングス」(1961)の「イエスの活人術」
いや〜〜、やはり「神様はおられるのかも」というようなちょっと興味深いことがこの日曜日に起こったのだ。
先日まで紹介した保江邦夫博士のご著書
「唯心論武道の誕生」
に登場する「キング・オブ・キングス」(1961)をレンタルしようと市内のツタヤに奥さんといっしょに行ったのだ。そして、その下にある市内の本屋で、この本とほぼ同時期、おそらくちょっと前に書かれたという「魂のかけら」なるご著書をすでに注文してもう入ったと連絡があったために、それも買おうと行ったのである。
レンタルショップで検索装置で調べるとどうもその古い方の1961年製作のはなかったのだが、女店員さんに調べてもらうと「あった」という。そこでそれを一旦は借りたわけだ。
ところが帰り際にちょっと見ると、どうも絵が違う。主演男優の名が違うということがわかり、製作年を調べてもらうと、やはり新しい映画の方だった。そこで、これは違うやつだということで返して、その下の本屋で保江先生の
魂のかけら―ある物理学者の神秘体験 単行本 – 2007/1
だけを買ったのである。
阿南市内には古本ショップが2点だけあり、その本屋に近い方からまずその映画のDVDがないか探す。しかしやはりそこにはない。そこで我が家の帰宅の道すがらもう一方のショップでありそうな場所を2箇所調べてもらうと、やはりないということですごすごと帰ろうとしたのだ。が、「ひょっとして」と思い、私がその女店員が最初に調べた方を見てみると、一番下の棚に「あれ?」「キング〜〜〜」とあるから、よく読むと「キング・オブ・キングス」とある。「まあ、新しいやつだろう」と取り出してみると、「ビンゴ」。なんと
1961年版の「キング・オブ・キングス」
「キング・オブ・キングス」
だったのである。750円。
そこで、昨日は奥さんと夕食の時間にずっとこの映画を見たのである。
そして、私が知りたかった「イエスの活人術」の場面をずっと探していた。そして、ついにその瞬間が来た。私は奥さんに、「そろそろ例のイエスの活人術が出てきそうだ、きっとこの辺だよ」、と言って見ていた。
暴れまわるキ印の暴漢がイエス(=ジーザス)を発見するやいなやイエスの方に走り寄る。そして一気にイエスに立ち向かい首を締め始める。すると、イエスはいとも簡単に赤子を寝かしつけるかのように、あるいは、子供をベッドに寝かしつけるかのように、抱え込みながら仰向けに倒す。すると、相手は狂気の顔から慢心の笑顔になり、イエスの差し出した手に向かって自分の手を差し出してイエスに起こしてもらう。
とまあ、こんな場面として描かれていたのである。
いや〜〜、これが保江博士が推奨する「イエスの活人術」か!
と私は黙って見ていたのである。
まさに「合氣道」「愛魂道」であった!
興味ある人にはお勧めである。ぜひ一度ご覧ください。
(い)「魂のかけら」
さて、一方の「魂のかけら」の方は、今読んでいる最中だが、これまた面白い。
しかしながら、こういう話をまだ自分の実名で書くだけの自信がなかったという時代のことであって、
佐川邦夫
というペンネームで書かれた本である。エッセイ集のようでもあり、詩集のようでもあり、未知の読者への手紙のようでもあり、実に不可思議な本である。
しかしその文章や文体は、文豪にまったく引けを取らなかった湯川秀樹博士の最後の弟子でもあった保江邦夫博士だけあり、実に名文である。校正も凝っていて一気に書き上げたものとは思えない。
かつて私が奥さんと出会った頃、ユタ州ソルトレークのアパートで毎日1章ずつたったの一週間で書き上げた文章、これが後に近代文芸社から自費出版された拙著の「日本社会の構造的問題とその解決の方向―三セクター分立の概念」となったのだが(そのずっと後に再出版したのが「三セクター分立の概念」である)、まったくテーマも内容も異なるが、その時と同じ匂いのする本であった。
つまり、
魂の叫び声
が書かれているのである。
たくさんの奇跡のような話、奇跡としか思えない話、いや実際の奇跡の話の数々が散文詩的に記述されている。
これまた一読すべき本である。
(う)モンセラートの修道院
私は保江博士の一番弟子の1人の炭粉良三さんが見たという日本のテレビ番組、つまり、モンセラート修道院の修道士がたった二人でモンセラート山で荒行をしているという場面のある番組、これをずっと探しているのだが、いまのところYouTube内では発見できなかった。
きっとまだ出ていないのだろう。あまりに古すぎるからである。
しかしながら、いろいろモンセラート修道院で調べていくと興味深いものがたくさんあるので、それもついでにメモしておこう。以下のものである。
天使の歌声
といえば、かのウィーン少年合唱団が有名だが、ここモンセラートにも少年合唱団があるらしい。それがまた負けず劣らず実に素晴らしい。
モンセラット少年合唱団の歌声
モンセラット修道院の聖歌隊
他多数
バルセロナ モンセラット(モンセラート) Montserrat
基本的にキリストの奥義は「祈り」である。祈るという行為に対してこの宇宙存在が「何かを返す」。これが時に「奇跡=ミラクル」というものになるが、物理学的科学的な言い方をすれば、ある種の「作用反作用」の法則である。
悪いことをすれば、あるいは、悪いことを願えば、その反作用としてカルマが生まれる。いい事を願えば、その反作用として宇宙が何かのいいことを返す。
この単純な作用反作用の法則、これが単に物理的機械的な装置や現象に限らずこの宇宙の存在には必ず成り立つ。ただ単にそんなことを繰り返し多くの偉人達が言ってきただけのようにも見える。
神にいい事を願えば、皆が救われ自分も救われる。
フラーの言葉
これに対して、恐怖を煽れば、自分に別の形の恐怖となって反作用が来る。
フラーの言葉
テスラやドラードのいう電磁気の作用反作用のもっと高次版と言える。そんな作用がある。
したがって、己が単に知識や教育や法律や教義や儀式の成果だけで語れば、反作用もそのレベルの答えが帰ってくるだけだが、自分が魂のレベルで語れば、相手もそれで返してくる。
保江博士の「魂のかけら」とはそういうことを示した本である。だれしも人であれば、「ヒトモドキ」でなければ、魂にたいしては魂で返してくる。
一寸の虫にも五分の魂
はたしてヒトモドキ共に魂の1%もあるのかどうかわからないが、もし魂のかけらのかけらのかけらでもあれば、この世はもっと違ったものになるかもしれない。
そんなことを感じさせてくれる。
人のためにただ祈る。
こんな簡単なことが一番難しいのである。もちろん、サッカーも同じ。
物事は簡単に見えることこそ難しいのである。
アーミテージ、ラムズフェルトよ、神に祈れヤ!
by めい (2015-11-10 04:14)