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熊野霊学(4) 信条(及心得)の成り立ちと真十日神身 其の二 [神道天行居]

つづいて、「真十日神身の日常生活での、道を忘れて道を踏む有様(ありよう)を、完璧に説いて居られる」神道天行居信条全文が、熊野先生の注釈を添えて掲げられる。

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第一条 天行居同志の(実は全人類の)地上生活意識の大根本

      一
  私どもは天行(カムナガラ)の道(惟神道)を研究し神典に所謂清明心(アカキココロ)の表現を念願とし修養し努力せんとするものであります

第二条—第七条
層々無限の神界にあって人間生活に直接せられる神々、洋の東西を問わず天照大御神様を最高神と仰ぎ奉る諸々の大神達、押し並べて人類全体の神祇信仰の規範を示し給う。

      二
  天照大御神様は宇宙意識の最高表現であらせられ同時に人格的に厳(にんべんに厳)存し玉ふ活神様であらせられ我が皇室の宗祖であらせられることを敬信いたしまする

      三
  豊受姫大神様は特に愛育慈養の犠牲的愛の神様であらせられ私ども日常の衣食住を恵み玉ふ愛の神様であらせられることを敬信いたしまする

      四
  大国主神様は現幽両界の御規則確立以来、幽界を主宰(しろしめ)す大神様であらせられることを敬信いたしまする

      五
  人々が出生地(うまれたところ)と現住地(いまをるところ)とに祭祀してある土地々々の産須那(うぶすな)の神様は特に其の土地々々にゆかりある人々を御守護になつて居ることを敬信いたしまする

      六
  古事記や日本書紀等の古典に伝へてある神々を始め各地に奉祀(おまつり)してある神社の神々は公私とも人々に多大な恩恵(みめぐみ)を被(かが)ふらせ玉ふことを敬信いたしまする

      七
  日本国民は各自所属宗教の異同を超越して「祖国の神」として以上の神々を崇敬しなければならぬことを確信いたしまする

地上界国土の神(産土)、並びに諸外国の神的御存在は、国津定めにより、悉く国津神緯(ヨコ)系列の地祇に坐(ましま)し、地平的緯(ヨコ)系列の神的御啓導(やまとびらき)による霊的世界が訪れても、日本天皇の御顕現無くして、真の世界平和は実現されない。来る可き経(タテ)系列の天津神の御顕現(天孫降臨に象徴せられるいはとびらき)により、真の世界平和が訪れ、日本天皇の顕在化が実現される。


第八条—第二十七条
人類の地上界での生活は過去世以来の産霊紋理(むすびかため)の神律による因縁(むすび)の展開であり、身滌ぎ祓いの生涯である。個人は先祖以来の因縁性により生活上の万般、経済生活、感情生活は素より、身体の健不健等、すべて自己の真十日神身の顕在化達成までは、苦難耐忍身滌ぎの生活である。国家・民族も同様に、それぞれ太古以来の霊因(むすび)により、個人と同様な産霊(むすびかため)の中に在って、不可避の民族的命運の渦中に彷徨を免れない、大機進行と共に、神界の御啓導により、この八条より二十七条の人類の生活上の心得を、人間の則るべき「道」として示されたものであるが、次第に進行する真十日神身の顕在化と共に、漸々と人類の苦患も減少し、意識的に努力しながら遵守して来た「道」も、新世紀以降、年月を経ながら、(じんるいぜんたいがおのずから)自然体で道を忘れて道を踏む、妙境の体験を重ねて行く事となる。これらは個人も民族も同様の経過を辿り、その過程を山上の天啓では「やまとびらき」と御霊示になって居られ、「いはとびらき」の大前提となるものである。

      八
  わたくしども同胞は何れも固より宇宙意識の表現であり即ち天神地祇の血統(ながれ)であります、故に悠久無限の先祖を崇め親(むつ)み、悠久無限の子孫を愛み育むべき大自覚を忘れてはなりませぬ

      九
  私どもの修養努力の心得かたは要するに神習ふことであります、神習ふとは神の心を心とし神の行ひを行ひとすることであります、神の心とは清明心(あかきこころ)であり愛慈(いつくしみ)の心であり神の行ひとは修理固成意弥栄(ツクリカタメイヤサカ)であります。すなわち天行(カムナガラ)の実行であります

      十
  私どもは人々が死後なほ現世の如く人格的に生活することを原則として確知し、現世の如くに弥栄の道、天行の道に精進し修養努力するものであることを信じて疑ふ余地がありませぬ(原則外の変態現象もあります)

     十一
  天行(カムナガラ)の道を行くものは苟くも他人の正しい信仰を妨げるような言行があつてはなりませぬ、又た世の中の有らゆる  教学(をしへ)のよいところを愛(め)で摂(と)りて魂清(たまきよ)めの資(かて)と致さねばなりませぬ

     十二
  天行(カムナガラ)の道を行く者は古人の謂はゆる人事を尽して天命を待つ心がけが大切で、心身の力を尽して各自の本分をつとめると同時に無理なことせず無駄な煩悶せぬように修養することが大切であります、又た神は常に見玉ふ故に邪人(けがれびと)の攻撃等にも成るべく弁解せず天命に安んずると共に邪人が反省して善に遷り彼れが神恩感謝の幸福の日の早く来らんことを祷るべきであります

     十三
  他人の不幸、災難、病苦等に同情することは固より結構なことですが、更らに他人の得意、成功を心から欣び祝福することが神の子として何よりも尊い心がけであります

     十四
  なるべく陽気に暮らすこと、なるべくのんきにかまへること、なるべく怒らぬこと、なるべく成り行きにまかせること、なるべく将来(さき)のことを心痛せぬこと、なるべく笑ふこと、なるべく喜ぶこと、なるべく姿勢や言葉を正しくすること、凡そ此等のことは神に格(いた)る道であります

      十五
  うその笑ひもつづけて行けばほんとの笑ひとなること、うその喜びもつづけて行けばほんとの喜びとなること、うその幸福も思ひつづけて行けばほんとの幸福があらはれてくること、凡そ此等のことは神様の御言葉の中にある宇宙の神秘であります

      十六
  小善を其の日其の日つづけて積み行くこと、むつかしいことはあと廻しにしてもよいこと

      十七
  なるべく泣かぬこと、なるべくいんきにならぬこと、なるべくむつかしく考へぬこと、なるべくいんきな話をせぬこと、心を痛めるやうなむつかしい問題が起つたときは一と先ず其の問題に蓋をして棚に上げておいて忘れ、翌朝になつて棚からおろしてみること

      十八
  自分よりよほど年の多い人に対しては父母と思ひ祖父母と思ひなすこと、あまり年のちがはぬ人に対しては兄弟姉妹と思ひなすこと、誰に対してもほんとうにさうした感じの起らぬのは自覚の足らぬ証拠と思ひ返し、神の生命にして人々の生命たる愛の不足ためと思ひ返し、一層修養を励むこと

      十九
  一ぱいの水も一枚の紙もそまつにせず、ありがたくたいせつにすること、自分々々の持ち前の仕事を喜び楽しみ精出してはげむこと、すぎたことやさきのことを考へず今日只今当面の仕事が直ちに神さびたる光栄の神業(かみわざ)なることを知らぬ人は神を求めて神に格(いた)り得ぬ人であります

      二十
  天行(カムナガラ)とは、神の道に随ひて自(おのづ)から神の道あることを謂ふ、すなはち「まこと」「清明(さやけ)」「いつくしみ」の弥栄(いやさか)であります、これ即ち日月の道であります

      二十一
  他人にしんせつをつくしたり善事を施したりすることは他人の知る知らぬにかかはらず、そのまま自分のためとなるもので、太陽を背にして自分の影を追うて走るやうなものであります、影を追うて百メートル走れば自分のからだも百メートル進んで居ります、極めてわかりきったことで極めてわかりにくい宇宙の秘密でありますが、ただ斯く信ずるものが其のまま神の寵児でありまする

      二十二
  私どもの研究はこれを一と口に要約して申しますれば、真の古神道(霊的見地よりする体験的の神ながらの道)を研究することで、何も新発明の新思想を製造せんとするものでなく、決して珍しい精神運動ではありませぬ、併し人類の進歩、文化の向上を否定するものではないので、つまり新しい履(くつ)をはいて古(いにしへ)の道をふまんとするものに外ならぬのであります

      二十三
  私どもは天照大御神様の御神勅を奉体して顕幽両界を通じて神人相ともに力を協せての大神業を成就せねばならぬ大自覚のもとに億兆一心以て精進を致さねばならぬのでありまする、この大神業の遂行に障碍を及ぼす一切のものを撃破するには荒魂(あらみたま)の発動を必要といたしまする、仁とか愛とかの名義に枯死的解釈を与へて其の枯死的名義に囚はれるが如き卑弱な思想は焼鎌(やきがま)の利鎌(とがま)もて打ち払ひ、公私大小とも「悪」と戦ふに勇敢なる戦士とならねばなりませぬ、建国時代の父祖の気象の如く雄大壮快な気象を涵要せねばなりませぬぞ

      二十四
  つねに新鮮、清浄、慈愛、光明の心の中に呼吸すること正月元日の如きを欲しまする、一年間に三百六十五の元日を創作することが我が天行の道を行く同志一統の弥栄(いやさか)の大芸術でありまする

      二十五
  わたくしどもは太古神代よりの産霊紋理(むすびかため)の神律を信じて疑ひませぬ、中古以来多くの世人によつて使ひ慣れた用語を以て表現すれば善因善果悪因悪果すなはち因縁果報の神律を確く信じ、その光りをもって毎日の踏み行く道を照らして「善」の修行を人生の至宝と心得、理屈を離れて実地に実行を積み行くことが其のまま天行(かむながら)の道でありまする

      二十六
  誰れにでも大きな声で話せることならば如何なる問題にても神々の恩頼(ミタマノフユ)を御願ひして少しも恥づることはありませぬ、人事を尽して神助を仰ぐことは神の子たる人々の正しき道であります、神様は敬神者のために大なる災禍を小ならしめ其の遠きものを近よせて普通にみれば災害むらがり起るかと思はれるやうな境地に導かれることもありますが、これ其人が真に浄められつつ恩寵の境に導かれる幸福の音づれであります、深く広く遠き神の摂理は、視野の短小なる普通の人々の測り知ることが出来ないものであります、神は愛なることを信じて何も彼もカムナガラだと安住するものは平凡なる偉人であります

「清明心(アカキココロ)の表現」は、単なる宗教的信念や道義的精神では、葛藤多きこの世の日常生活に、その顕現はまことに至難の神行であるが、第二十七条に示されたウケヒに神習い、日常怠る事無き修法と、霊的心構えにより、知らず知らずの内に、真十日神身の顕在化が進行し、内観修法の深化に伴い、人間の真我の体認による意識構造の次元上昇を看るに到り、鎮魂中や夢感による光明体験、幽体離脱の霊的体験の裡に、御冥護(みょうご)を忝(かたじけ)なうする事も多くなり、なにもかもかむながらますみのむすびどうすることもいらぬ、やまとびらきの妙趣を感得するに到るのである。

      二十七

  神典の天照大御神様と須佐之男神様とのウケヒの章に明記してありますところの「一心清明」は私どもの修養の極致でありまして、そこには一切の名義あることなく善悪もなく正邪もなく清明も亦た無き清明でありまするが、併し此の清明心(アカキココロ)を不断相続することは容易なことではありませぬ、ですから只ただ敬神利生を第一と致すのでありまする、これ平凡なる方便の如くにして実は宇宙の神秘、断じて此外に出でない真理の躬行でありまする
                                      以上

                        平成九年五月磐山神社御例祭当日
                                  御霊啓隨謹記

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