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熊野霊学(3) 信条(及心得)の成り立ちと真十日神身(ますかがみ) 其の一 [神道天行居]

「ひとのみちをつくしてかみにたのめ」。その「ひとのみち」のありようは、天行居信条(及心得)に洩れることなく示されている。今回、2回に分けて掲載させていただくのは、熊野先生が平成9年5月磐山神社御例祭当日記された文で、「御霊啓隨謹記」と末尾にある。

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◉信条(及心得)の成り立ちと真十日神身(ますかがみ)

人間は生誕によって、各々産土の直霊(なおひ)を賜り、一霊(マスミ)と魂魄(ムスビ)による矛盾撞着の葛藤の中で、魄体(むすび)の生活を唯一の現実世界と思い込み、誤れる自己限定により、幻影におびえる苦悩の中にあるが、ウケヒの神行により、無限の大光明体に坐(ましま)す天祖と、各人の頭部に頂く一霊(やたのカガミ)の照応による身滌ぎ祓いにより、日を積み月を重ねて、次第に真十日神身の本質、霊魂魄(マスミノムスビ)の実相に覚醒して行くのである。天行居信条(及心得)は、その中の心得に於て、真十日神身の日常生活での、道を忘れて道を踏む有様(ありよう)を、完璧に説いて居られる。
その第一条は天行居同志の(実は地上人類の)生活目的(ちじょうかいにうまれたもくてき)の根本を示現され、第二条より七条までは、層々無限の神界にあって三次元の人間世界に直接せられる神々を簡明に列挙せられて人類の自覚を促され、神祇信仰の規範を黙示されておられるのである。更らに八条より二十七条までの二十箇条は、この現界での神ならいの心得を詳細に述べ給いしものである。特に第一条の人類としての現世の生活目的とも申すべき、信條の総括「清明心(あかきこころ)の表現」は、自己の真十日神身の具体的顕現にかかる宗教的御表現であり、第八条は人類が天照魂(あまてるたま 宇宙意識)の表現であり、その故に生活における基礎は、報本反始(ほうほんはんし 礼記の言葉、本に報い始にかえる、祖霊の恩に酬いる)にあり、石城山(いわきさん)登拝、大祓詞、十言神咒(とことのかじり 天照大御神ーアマテラスオホミカミー大御名奉唱)の修唱に代表される、霊的修法の継続による自己の真十日神身の顕在化(じぶんでもにんしきできること)が、この世に生を享けた真実の意義であることを示され、その真十日神身の顕現(清明心の表現)にかかる霊学上の具体策は、最終箇条の二十七に、天照大御神様(マスミ)と須佐之男神様(ムスビ)の魂魄のウケヒによる三次元界の徹底浄化(ヤマトビラキ)がこの世の成り立ちの根本であり、その大神秘に神習う人類の平凡な報本反始の生活が、敬神利生であることを、平明に諄々と説いて居られ、現実の世界での私共の生活の基盤が、結局 一、神様を敬ひ 二、天子様を尊び 三、心を清くして 四、善を行ふ、日常的な「清明心の表現」に尽きることを垂訓して居られるのである。信条(及心得)につき、更らにこれに肉迫し集中力を発揮する、実践的信念強化のため、若干分析的考察のお許しを頂き、次の如く解明するものである。三次元界に在っては、かかる高次の宗教的規範は、人はひたすら己の頭上に掲げて尊崇敬慕はすれども、実生活には高嶺の雲として、実践に疎い傾向があるが、この信条は二十七の数霊に司られし光輝燦然たる円相を成す霊的御存在(しんかくのあるいきたごそんざい)であり、単なる三次元界の教条では無く、その実践は霊的修法の究極たる自己の真十日神身の体感顕在化と、表裏一体を為す天行居修道の根基であり、顕の生活体験と幽の修法生活の両者陰陽相俟って、怠ることなく、焦ることなく年月を重ねて行くときは、必ずしも嶮阻な荊棘(けいきょく)の道ではなく、むしろ天分相応の成道が確約される易行道(いぎょうどう)とも申すべきである。天行居の教義は高次のものであるが、むつかしいと云うのが従来の評価であるが、この信条と修法の顕密両具した、至簡至易の易行道の世界が坦として眼前に展開して居るのである。漠とした(とりつくしまもない)観念や思索(そうねん)の中で、実践は困難に見えても、修法と並列した修道の日々は、まことになにもかもかむながら ますみのむすび どうすることもいらぬ広々とした大道を、ゆるゆると緩歩することを許された世界であり、この世界の基盤として、太古神法により厳しく結界された神山石城山が、三次元界の拘束を離れた別界を構成し、地上界救済の霊地として出現しているのである。信条(及心得)の実践、神山石城山登拝により、人はいかなる困難も屏息の日々をも、悉く打開して、やまとをひらきていはとをひらく大光明世界に参入出来るのである。古来霊感者必ずしも真の宗教的実践者では無く、一方観念的宗教人必ずしも霊的高次世界の参入を許されざる、三次元界の矛盾にあって宗教的世界での相互不信を醸成し、邪霊界の侵襲に多大の被害を蒙って来たが、大節進行の中時節の到来を得て、ひとのみちをつくす石城山の真実(ほんもの)の大道を歩むとき、かかる問題は自から雲散霧消するのである。(この項つづく)
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