<追悼・吉本隆明さん(2)> 「苦しいときに、吾妻連峰の山肌をおもいうかべた」 [吉本隆明]
吉本隆明という名前をはじめて知ったのは、中核派バリバリの先輩が書いたアジビラでだった。理解するにはほど遠い文章だったが、その中に「吉本の米沢時代」という言葉が出てきて、気になりつつ「まさか吉本が米沢に関係あるなんて・・・」の気持ちが勝っていた。吉本が確かに米沢に住んでいたことが、「らしい」から確信に変わったのは、吉本を本気で読み出してまもなくだったと思う。「エリアンの手記と詩」の中に次の文章を見出したときだった。
≪僕の居る盆地の街は東北と西南の方位に街を両断する大路が走っている そのひとつの片隅に駅があるのだ≫
次の文もあった。
≪西南の大路を街外れまで歩むとすすきの峠がある 峠の切通しからは盆地の街が一望に眺められる また丁度反対の山並を見渡すとゲガン峠のあたりが遠く蔭っている そのむこうにミリカの居る都があるのだ 僕は哀しい日にはすすきの峠に立つ するとどんな懐かしい人たちの面影にも出遭うこと出来るように思われるのだった・・・≫
母の実家も、通った高校も米沢の自分には、これらの文章から斜平山や吾妻の山並みに抱かれた米沢の風景が懐かしく思い浮かんだ。他ならぬ吉本によって、遠く離れた異郷の地で故郷を思い起こす感傷を得ることができたのだった。
吉本は、昭和17年から19年の夏まで米沢高等工業生として多感な時代を米沢で過ごした。『初期ノート』に吉本が自らの歩みをたどった「過去についての自註」がある。その中に、吉本が置賜に住んで感じ取った東北の自然が記されている。
≪東北の「自然」は、けつして巨きくもなければ、けわしくもないが、やはりそれ独特の風貌をもっている。・・・一言にしていえば、動きやけわしさが、つぎの瞬間にはじまるかもしれないのに、それ以前に冷たく抑制している「自然」とでも言おうか。身をすりよせようとすれば、少しつめたく、怖れを感じさせるには、何となく親しい単純さをもちすぎているといった感じである。街をとりまく丘陵から、その後方に並んでいる吾妻連峰にいたるまで、この感じはかわらない。≫
「自然」にことよせて言っているが、私には、米沢で暮らすことで感じ取った置賜の人々への印象のように思えてならなかった。
10数年前、吉本の米沢時代を調べて私家版にまとめられた方が米沢におられることを知ったときはうれしかった。九里学園高校の斎藤清一先生だった。早速吉本への私なりの思い入れを手紙に認め、2冊になった冊子を送っていただいた。その後の発行分も含め、『米沢時代の吉本隆明』という単行本になって平成16年梟社から出版された。この本によって吉本の米沢時代をつぶさに知ることができる。当時の吉本の数々の写真から学籍簿までもが収録されている。吉本が残した米沢についての文章も多い。先の「過去についての自註」からの文章のあとに、昭和32年同窓会誌『親和会』に寄せた「昭和十七年から十九年のこと」からの引用がある。うれしい文章だ。
≪米沢の自然の印象は、そのあともわたしを随分たすけた。都会で育ったせいもあるかもしれぬが、色々な苦しいときに、日に幾度も色どりを変える吾妻連峰の山肌を鮮やかにおもいうかべた。人間と人間との入りくんだ心の関係、人間と社会との矛盾の奥深くのめりこんでどうにもならないとき、その風景の印象は、私の思考を正常さにもどしてくれた。これからもそうであろう。≫
実は、私も吉本氏と電話でだが言葉を交わしたことがある。昭和60年前後、宮内幼稚園を会場に『詩人の会』という催しが数年にわたって開催されたことがある。谷川俊太郎、吉野弘、大岡信、團伊玖磨といった方々のお話をワイングラスを傾けながらお聴きするという贅沢な集いだった。しばらく途絶えた後、段取り役の足立守園長に吉本氏を提案したのだった。渾身の依頼状だったはずである。しかし、電話でお伺いしたご返事は「詩人なら私よりももっとふさわしい方がいる」という素っ気ないものだった。詩人の名前をふたりほど挙げられたのだが記憶にない。今は吉本氏の気持ちがわかるような気がする。「詩人」の会では心を動かすことができなかったのだ。斎藤氏の「あとがき」に、吉本氏が昭和61年に奥様と共に半日だけ米沢で過ごされたことが記されている。しかし、置賜で講演していただく機会はとうとう逸してしまった。あのときのことを思うと、悔いとともに責任を感じる。東京まで出向いてでもお願いすべきだった。しかし正直に言えば、そこまでするには、私にはあまりに畏れ多い存在だった。(つづく)
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