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吉本隆明さん、ありがとうございました。 [吉本隆明]

先ほど9時のニュースで吉本さんの訃報を聞いた。今日の午前2時13分とのこと。実は今日は私の母親の満2年の命日だった。母親の父親、つまり祖父の命日も3月16日。祖父が亡くなったのは昭和13年だったと思うので、75回目の命日か。

最近昔のことを思い起こさせられることが多く、目の前に昭和43年から44年のノートがあった。その最初のページに吉本の言葉が書き連ねてある。今あらためて読み返した。
 
≪逃げることによって困難な状況をやりすごし、一貫性を見せかけるな。≫
≪重要なことは、積み重ねによって着々と勝利したふりをするのではなく、敗北につぐ敗北を底まで押して、底から何ものかを体得することである。私たちの時代は、まだどのような意味でも、勝利について語る時代に入っていない。それについて語っているものは、架空の存在か、よほどの馬鹿である。≫
≪たとえ百万人がひとつの方向へゆくのを望見したとしても、欲しないならば、ただ単独で別な方向へゆけ。ただし、これにはかなり困難なひとつの条件がひつようである。かならず、自らのなかに単独者と大衆との二重性を保持しつづけるということ、というのがそれである。≫
≪告白はもともと内的な確執がやんだときに成立つものだ。≫
≪現実の危機ということは決してそのまま精神の危機ではない!≫
≪思想はそれ自体の力で、現実的になにを擁護すべきでありなにを擁護すべきでないかを充分に知っている。しかし、現実的な運動のうちなにを支援するか、またなにに支柱をもとめるかという問いかけは、思想にとってはいつも第二義以下の問題である。≫
≪かれ(柳田國男)は、人間の本質指向力が、つねに土俗からその力点を抽出しながら、ついに、その土俗と対立するものであるという契機をつかまえようとはしなかった。総じて、知識というものが、はじめに対象にたいするあり方を象徴しつつ、対象と強力に相反目するものであり、これをになう人格が、つねに共同性からの孤立を経てしか、歴史を動かさないということを知ろうとはしなかった。≫
≪何よりも抽象力を駆使するということは知識にとって最後の課題であり、それは現在の問題に属している。柳田國男の膨大な蒐集と実証的な探索に、もし知識が耐ええないならば、わたしたちの大衆は、いつまでも土俗からの歴史の方に奪回することはできない。≫

44年6月からの次のノートにも。最初のページに書き記した吉本の言葉。「初期ノート」からだ。
≪結局はそこにゆくに決ってゐる。だから僕はそこへゆこうとする必要はないはずだ。ここをいつも掘下げたり切開したりすることの外に、僕に何のすることがあるといふのか。≫

いまノートをめくっていて見つけたのだが、47年の1月1日に吉本と夢で会っていた。まったく覚えていない。うれしかったのだろうか、走り書きで記録してあった。当時の気分を思い出せそうなので、解読しつつ引き写しておきます。当時は卒論に取組んでいたときで、学校に行く子供たちの声を聞きながら布団に入って、昼すぎに目覚める生活だったように思う。午前の11時半に目覚めて書いたらしい。

≪吉本隆明と会っている。
おれが、M-P(メルロー・ポンティ)やっているんですが、というと、吉本は、少々身をのりだしてくる。ここでの吉本は、写真なんかで見ている吉本のイメージだ。つぎにおれが、吉本さんが、M-Pなんかについて時々書かれていますね、という。
場所は本屋だ。新装なった本屋で、スーパー式にカゴをもって買ってゆくような本屋。次々に書棚に店員によって本が並べられると、その本に、文科の学生、とくに学生運動やっていた連中たちが、ワッと殺到してゆく。そして、吉本は、その間を待つためにあるイスに坐っているようだった。
おれも(書棚の方に)おもむろに行ってみる。「畏怖する環境」というのを、その中に見出していたからだ。おれは「畏怖する人間」を注文したはずなのに違っていたかな、と思いつつ、柄谷のものだと思う。注文はしているが、あと6日まで待たんならんとすると、ここで買ってしまってもいいな、と思ったからだ。ところが、おれがいくかいかないうちに、また、人の波が、おれを越えて押し寄せ、それがひいたあとは、もう「畏怖・・・」はなくなってしまっている。だれかもおれより先に柄谷を読もうとしているのがいると思って、少なからずショックを受けたようだった。しかしそのまま帰るのも手もちぶさたでもあるので、その辺に学生運動のビラのような文字で書かれた背表紙がズラッと並んでいる中から「磯田光一も上層部を毒した」云々の意味の本があるのを取り出して、パラパラめくる。中味は、運動のビラ調のもののようで、宇和宮出版とかいう出版社のものであるようだった。それを、再び書棚に返して、戻って席に座り、そこで吉本を左側にみて、なにか考えるようにして、すわっているのだが、なんとなく決心して吉本に話しかけるのだ。
さて、おれが、先のようにいうと、吉本は、あのイメージから少々ずれてくる。おれは、吉本と話しているということに感謝しつつ、調子にのったまま、このごろ吉本さんとM-Pのずれが見えてきつつあるんですけどね、という。その態度は、いささか、吉本へ媚びる態度と密かな傲慢さを秘めたものである。
このあたりから、吉本の表情は笑いめいたものに代わる。
たしか「孝行だね」、といった様だ。
それと共に、おそらく学生運動をやっているとおぼしき人たちの間から少しずつ笑いの渦が捲きおこりはじめる。その渦の中心は吉本にあるようだ。そして、それは、おれに向けられている。吉本の表情は、写真でみる吉本のイメージとは全く別人である。周囲の笑いに溶け込んだ笑顔だ。そして、その笑いは、おれのほんとうのくだらなさを、心底から笑っているような笑いであった。
「朝、勝手に都合のよいときに起きて、気が向いたら勉強して、また寝たくなったら眠る。」
また、
「20年も30年も一心にそれをやってきた人のことを、おまえのような何の葛藤もなく、ただ、自分の自然さを追っているだけのやつに、何がわかってたまるか。」
といった意味のことが、吉本を中心にした笑いの渦から発せられたようだ。
また、吉本を話の中心にして、
「戦いだ、戦いだ」といいながら、テーブルを思いっきり揺すっている。
S(学生結婚した同級生)が女房を連れているようだが、そうしておれの側に、「おれは戦ってきた」という自信をもって坐っているようだった。
おれは、おれに対する嘲笑を、最初は、卑屈な笑いで耐える。しかし、その卑屈さに自分で気づいて、こりゃまずいな、このおれの卑屈な笑いは、周囲の嘲笑がやむまでつづきそうもない、と思うと、下を向いて、それらの嘲笑を、己れの一身にひきうけ、十分じぶんなりに反省しているような態度をとる。
しかし、吉本の、卑小ながら、心底からおれを笑ってしまわずにおれぬような顔が、おれに迫り、また、M(同級生)らによってなされる笑いは、一層強烈になるばかりなのだ。
おれは、丸い紙一枚と、それと同じ型のアルミ箔2枚を手にもって、あと少しの辛抱だと思ったようだ。ひたすら、耐えること、耐えること、と考えていたように思う。
そして、それと共に己れの卑小さを痛感し、何とかせねばと思っていたようにも思う。こんなに苦しいことがまたとあろうか、と思っていったようだ。時間の経つのが遅かった。12分ぐらいすぎたころ、は耐えることにおれの気持ちも慣れて、その時、耐えることの必死さが、少しずつ対象化されてくるころ、目がさめたのだ。≫

その後の1月8日にあらためて吉本について書いていました。

≪吉本の思惟のすごさ。沈黙に拮抗しうる思惟、生活に拮抗しうる思惟とは、表現され、対他的様相を与えられた瞬間、己れの相貌を失ってしまうような思いつき的なものではなく、その表現そのものが、己れのものとして、思惟世界に生きる己れという肉体をもつものとしてあらわれてくるゆえなのではなかろうか。
あとでふりかえって、おれもこんなこと考えていたんだなあ、と思って自己満足に陥ってしまうような思惟ではなく、その思惟そのものが肉体をもって世界に存在してしまうような思惟。その時の私に還元してはじめて理解しうることばではなく、肉体をもっているがゆえに、世界の中に確固とした、独立した姿をもってあらわれてくるような思惟。
表現というものを、自然におのれのうちから流出してくる、たとえば、いまおれがこうしているようなものではなく、己れの意志的な力によって表出すること、そこに、言語による表現の極があると、吉本は考えているのではなかろうか。・・・≫

そのあともつづくが、最後の方は何を言おうとしたかよくわからない。
ともあれ、吉本は私にとって、ほんとうに師であった、と今あらためて思う。吉本に出会った後の自分が今の自分にそのままつながっている。こっぱずかしい自分からあたりまえの自分へと導かれたのは、ほんとうに吉本のおかげであった。
 
 (吉本さんに型どおりは似合わないが) 
 
吉本隆明さん、ほんとうにありがとうございました。
衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。 合掌
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 
死によってより身近かになる存在がある。私にとって、吉本さんはそういう存在にちがいない。 もっとも、これまで十分身近かではあったのだが、身近さの質が変わる。生きておられるうちに夢のことなど書けなかった。亡くなることで、吉本という人が私にとっては夢の世界と同等のところにおられるようになったのだなあ、と思う。時間が経つと当時の現実より夢のほうがよりリアルに思えることだってある。


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めい

母は大正14年5月米沢の生まれ、吉本の学年一つ下。吉本が米沢で過ごしたのは昭和17年から昭和19年の夏。母の家は吉本の下宿先からそう離れていないところで紙屋を営んでいた。吉本とはどこかで触れ合っていたかもしれない、などと思う。吉本を知ってだいぶ経ってから米沢にいたことを知ってほんとうに驚いたものだった。米沢時代の吉本については、斉藤清一氏による「米沢時代の吉本隆明」(梟社2004)がある。http://www.amazon.co.jp/%E7%B1%B3%E6%B2%A2%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%90%89%E6%9C%AC%E9%9A%86%E6%98%8E-%E6%96%8E%E8%97%A4-%E6%B8%85%E4%B8%80/dp/478776313X
by めい (2012-03-17 08:52) 

めい

山形新聞の訃報記事の扱いの大きさに驚いた。1面6段と29面7段、2本立て。1面には「2年半、米沢で学ぶ」の小見出しで次のようにある。

≪1942(昭和17)年4月、東京化学工業学校から米沢高等工業学校(現山形大工学部)応用化学科に入学した。米沢時代は宮沢賢治に傾倒。「雨ニモマケズ」の詩を墨書し、寮の自室天井に張って眺めるほどだった。44年にはそれまでの習作を集め、自らガリ版で刷った初の詩集「草莽」を約20部発行した。44年9月に同校を卒業。半年ほどの勤労動員を経て、東京工業大に進んだ。≫

29面に載った山折哲雄氏の談話がいい。
≪一般に言われるような「反体制の思想的リーダー」というレッテルでは捉えきれない思想家だった。
外国の思想や文学を自分の肉体で咀嚼しろ過して出していたのは、常に自前の言葉だった。同時代の他の知識人にはないことで、希有な思想家といえる。
だが戦後の日本社会は、こうした真に個性的で独創的な表現の営みを、祭り上げるだけであまり評価しなかった。日本の思想は戦後、数多く外国に紹介されたが、吉本さんの言葉は独創的なために翻訳されにくく、同じく翻訳が少なかった柳田國男や折口信夫に通じるところがある。
戦後、知識人の思想や運動と大衆文化の間には常に深い溝があったが、そのギャップを懸命に埋めようとした人だった。溝は今も深い。いったい誰が埋めていくのか。亡くなったことが残念でならない。≫

読んでこみあげるものがあった。
by めい (2012-03-17 12:35) 

めい

吉本と会った夢の中に磯田光一が出てくる。
≪学生運動のビラのような文字で書かれた背表紙がズラッと並んでいる中から「磯田光一も上層部を毒した」云々の意味の本があるのを取り出して、パラパラめくる。中味は、運動のビラ調のもののようで、宇和宮出版とかいう出版社のものであるようだった。≫

磯田光一に「吉本隆明論」がある。その巻頭に吉本が片目に眼帯をかけた長女の多子(さわこ)ちゃんを抱いて絵本を見せている実にいい写真があった。切りとって机の前の壁に貼っていたものだった。

夢の1年と少し前、45年の11月の大学祭で磯田光一の講演を聴いている。そこでの磯田への評価は高くない。その時は桶谷秀昭さんも一緒で桶谷さんの方に共感していた。

≪磯田は若干期待はずれ、というより、過大評価だったようだ。納得、というところ。要するに恐ろしさを秘めてはいない、という印象だった。それゆえ、磯田さんの言うことが、いちいち予想どおりという感じで聴いた。
桶谷氏は、なにか秘めた、持続する情念を背負い込んでいる感じ。磯田氏は、単に批評家、認識者の位相にあるが、桶谷氏は文学者の位相にある、という感じ。・・・磯田は一歩あやまると城塚(登)と同じところにいっちまう。もういっちまっているのかもしれない。・・・≫

入学当初は、東大教授の城塚登あたりを読んでわかったつもりになっていたものだった。こっぱずかしい時代のことだ。アカデミズムはその延長上にあるのだろう。そのこっぱずかしさに気づかせてくれたのが吉本だったのだ。

そういえば、こっぱずかしい時代の吉本論としては、小林一喜の「吉本隆明論」がある。私にとっては吉本への導入の役割を果たしてくれた。矢内原伊作の「サルトル」(中公新書)がメルロー・ポンティへの導きになったように。小林は吉本を、矢内原はメルロー・ポンティを批判的に取り上げている。それを読んでかえって、吉本とメルロー・ポンティのまともさがわかったのだった。

by めい (2012-03-17 23:46) 

めい

世川行介さんが書いている。

 ≪コンビニで朝刊を買った。
 吉本隆明の死亡の記事が出ていたが、
 不思議なことに、
 朝日も読売も、コピーライターの糸井重里の談話を載せていて、
 吉本隆明の死を語るのが糸井重里かよ、
 と思ったら、
 すごく寂しい気持ちになった。≫

わかる気がする。こっぱずかしいのだ。私にとって、あのこっぱずかしさをとことん相対化してくれたのが吉本だったはずなのだ。

≪今さらあらためて書くまでもなく、
 僕は、19歳から42歳までの23年間を、
 鈍い頭脳にもかかわらず、
 ただひたすら、吉本隆明の著作を耽読して過ごした。
 彼の個人誌『試行』から、単行本、掲載雑誌まで、買い漁って読んだ。
 北川透流に言うなら、
 吉本隆明の書いたものなら、便所の落書きでも読みたい、といった風な、ミーハーファンだった。

 人は誰にも影響を与えることはできない、と書いたのは太宰治だが、
 青年期から壮年期初期までの僕は、吉本隆明からは、多大な影響を受けた。
 言い方を変えるなら、
 吉本隆明は、驚こうとする僕の心に驚きをもたらせてくれた文学者だった。≫

と書く世川さんだ。http://blog.goo.ne.jp/segawakousuke/e/a9f6bce21da1bed14ab537d4
by めい (2012-03-18 00:06) 

めい

群盲象を撫でる的な感想が多い中でまともな芹沢さんの話。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120316/art12031611560003-n1.htm

   *   *   *   *   *

「桁違いの思想家」 評論家の芹沢俊介さん
2012.3.16 11:56
評論家の芹沢俊介さんの話

 「こんな人は今もちろんいないし、これからも出てこないだろうと思えるほど桁違いの思想家だった。日本の学問や思想はヨーロッパに範を取っているので、足下にはなかなか目に向かない。そんな中、吉本さんは自力で自立した思想をつくってきた。その思想の独自性を認められる人がいなかった意味で孤独な思想家だったと思う。彼の思想は難解といえば難解だが、それを解きほぐす作業がわれわれに課せられているのではないか」
by めい (2012-03-18 08:02) 

めい

うなづかせられるところの多い世川さんの吉本観なのでそっくり転載させていただきます。
http://blog.goo.ne.jp/segawakousuke/e/8cdc9674db4d84ef1c7d8dd8bb3e6d33

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吉本隆明の死 (2)
2012年03月18日 04時17分05秒 | 05 文学篇


 隆慶一郎、という時代小説作家がいた。

 東大の文学部か何かを出て、
 永く脚本家として生き、
 昭和末期か平成初期に、60歳にもなって、突如として小説世界に登場し、
 堰の切れた川のような激しい勢いで、
 『吉原御免状』、『影武者徳川家康』、『捨て童子・松平忠輝』、
 といった、
 <まつろわぬ(権威に服従しない)人々>をテーマにした傑作を書きなぐったが、
 たった五年間で、病気で死んだ。

 どこまで本当の話かは知らないが、
 彼は評論家小林秀雄の、大学と就職先の『弟子筋」にあたり、
 (小林秀雄の存在感が大きすぎて)小林秀雄が死ぬまでは何も書けなかった、
 と述懐していた、
 らしい。

 嘘半分にしても、その心理はよくわかる。
 今後、吉本隆明に対して、隆慶一郎の小林秀雄へと同じような思いの人たちが、
 さまざまな吉本隆明論や思い出話や「秘話」を書き綴ることだろう。
 もっと言うと、
 おそらく、死を契機として、「吉本隆明の相対化」が始まることだろう。
 中には、その呪縛から解き放たれ、
 「小林秀雄の隆慶一郎」的文学者が誕生するかもしれない。

 それでいいのだ。


 『反核異論』で、奥野健男や島尾敏雄といった多くの友人と決別してまでも、
 日本の<良心的文化人>たちの欺瞞に真っ向から立ち向かい、
 彼らを完膚なまでに論破し、
 思想貧困なこの国において、不世出の<思想家>としての見事な立ち姿を見せてから数年後、
 宗教家としての麻原彰晃を高く評価したものの、
 麻原を教祖と戴く「オウム真理教事件」で、無差別殺人という事態に直面し、
 すべての主張が「言い訳」と受け取られるようになってから、
 吉本隆明は急速に<孤独>になっていった、
 と、僕には見えた。

 吉本最後の「弟子筋」と思えた小浜逸郎までもが叛旗を翻した時、
 もう、その時分の僕は、吉本隆明の「良い読者」ではなくなっていたが、
 彼の周辺が急速に狭まっていくように感じた。


 あの強靭な意志の持ち主であった吉本隆明にとってさえも、
 <孤独>は、やはり、耐え難いものだったのだったろうか?
 それとも、それは、<老い>が原因だったのだろうか?
 僕には、よくわからないが、
 <孤独>になった彼は、
 コピーライターの糸井重里に急接近され、糸井と二人三脚みたいな出版活動を始めた。
 糸井の作と思われるキャッチコピーの華々しいコーナーが書店に置かれ、
 かつての緊張感に満ちた論理を水で薄めたような「話体」の単行本が並び、
 昔々の著作が新装本で出た。
 当時の僕は、彼方から遠望しているだけの放浪者だったが、
 見ていて、痛々しかった。

 こういうことを言うと、糸井重里から叱られるかもしれないが、
 糸井重里の頭脳で、吉本隆明の<思想>の全貌が、理解できるわけがない。
 人には、能力の限界、というものがある。

 僕たちは、吉本の著作から、
 真実は難解である。
 と教えられたが、
 糸井は、「難解の絵解き」に情熱を傾けていて、
 その作業に吉本隆明をつきあわせていた。
 それは、
 時代的と言えば、実に時代的ではあったが、
 自分の倫理の最高部を理解できない人間に、自分の売出しを任せなければならない、
 そんな吉本隆明が、少し哀しく思えたのは事実だ。
 

 淋しい人になっているなあ。

 それだけを思った。


 吉本隆明の新作を、身銭を切って買う行為は、
 もう、それは、ある時期から自分に禁じていたから、
 何ヶ月かに一回、書店で立ち読みの流し読みをするだけの間柄になっていたが、
 どの新刊本も、従来の論理の焼き直しとしか読めず、
 しかも、詩集などは、文庫本であるにもかかわらず、1000円を優に超える価格設定で、
 彼が昔、どこかの文学者を本の価格で批判していた時の文章を思い出し、
 そりゃあないぜ、と思った。


 しかし、
 そうした晩年の彼への思いは思いとして、
 ある時期の僕が、吉本隆明の「一番次元の低い信者」であったことは、
 疑いようのない事実だ。
 僕は、吉本隆明の文章から、多くを吸収し、
 彼が説くような<生を>生きようと必死に生きた。


 文学や思想とは、実に残酷なものだ。
 福永武彦の処女作である『風土』にも描かれていたが、
 その魔力にとり憑かれれると、
 自分がどんなに無能であっても、それ以外の生き方が選択できなくなって、
 苦悩の坂を転げ落ちなければならない。
 僕の59年間などが、その最たるものだ。

 しかし、吉本隆明は、
 そうした無能な僕たちに、
 才能が何なのだ。人は選んだその<生>を努力をする以外にないのだ。
 とことんやって見せてから泣き言を言え1
 と、辛口の激励を投げ続けた。
 彼のその言葉に慰められ決意を新たにした人間は、大勢いたはずだ。


 時が一つの場所に留まることがない限り、
 人は死に、
 作品の多くは、人々の記憶から忘れ去られ、
 いつか、「古典」となって、
 骨格だけが語り伝えられるのだが、
 吉本隆明という思想家にして文学者は、
 権威への隷属が当たり前のこの国で、
 権威への反逆を心に期する少ない民に、
 これからも読まれ続け、
 そうした人々の心に<何か>を与え続けることだろう。

   *   *   *   *   *

>自分の倫理の最高部を理解できない人間に、自分の売出しを任せなけ
>ればならない、
> そんな吉本隆明が、少し哀しく思えたのは事実だ。

老いとはこっぱずかしさに戻ることなのか。それはそれで安心なのだからそれでいい。自分も老いつつある。
by めい (2012-03-18 08:30) 

めい

副島さんも書いた。なかばぞくぞくしながら読んだ。
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/

   *   *   *   *   *

[917]革命思想家 吉本隆明(よしもとりゅうめい)の死 に 際して
投稿者:副島隆彦
投稿日:2012-03-18 02:02:37

副島隆彦です。 今日は、2012年3月17日です。

昨日16日の朝の2時13分に、思想家の吉本隆明(よしもとりゅうめい)が死んだ。
 
私は、吉本隆明の死を以下のネット記事で知った。この知らせを聞いた初めは何の感慨も湧かなかった。ついに吉本さんも死んだか、87歳だ、と思っただけだ。

 私は、今も吉本主義者(よしもとしゅぎしゃ)である。
私は、自分が18歳の時(すなわち今から丁度40年前)から、ずっと吉本主義者だ。このように公言して憚(はばか)らない。私は、吉本から多くを学んだから、ウソをつかないで本当のことを書いてきた知識人だ。他の多くのうそつき有名知識人たちとは違う。

 私は、この吉本主義者という、自己規定を隠したことはないしそのように表明してきた。 他の言論人たちで、今、自分の内心に恥じることなく、このように言える者はいないはずだ。 皆、ある時期に、歴史的な事件のあるごとに、吉本を批判し、裏切った者たちだ。

 以下の新聞記事にあるとおり、吉本は、私たち60年代、70年代世代の 政治発言を嫌(いや)がらない政治青年たちに、圧倒的な影響を与えた。 私はこのことを今になっても隠さなさい。吉本隆明の本をついに全く理解できなった、新左翼のくせに、頭の悪い人間たちもたくさんいた。

吉本は、激しい論争をしたとき、かつて書いた。「民衆とは何か。それは、私の本なんか読まない人たちだ。だが、お前の本も読まないよ」 と相手に言った。


(転載貼り付け始め)

●「吉本隆明氏が死去 よしもとばななさん父 戦後思想に圧倒的な影響 」

スポニチ  2012年3月16日 (金) 6時49分配信

 文学、思想、宗教を深く掘り下げ、戦後の思想に大きな影響を与え続けた評論家で詩人の吉本隆明(よしもと・たかあき)氏が16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去した。

 87歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長女多子(さわこ、漫画家ハルノ宵子=よいこ)さん。今年1月に肺炎で入院し、闘病していた。次女は作家よしもとばななさん。

 1947年東京工大卒。中小企業に勤めるが組合活動で失職。詩作を重ね、「固有時との対話」「転位のための十篇」などで硬質の思想と文体が注目された。戦中戦後の文学者らの戦争責任を追及し、共産党員らの転向問題で評論家花田清輝氏と論争した。

 既成の左翼運動を徹底して批判。「自立の思想」「大衆の原像」という理念は60年安保闘争で若者たちの理論的な支柱となった。詩人の谷川雁氏らと雑誌「試行」を刊行し「言語にとって美とはなにか」を連載。国家や家族を原理的に探究した「共同幻想論」や「心的現象論序説」で独自の領域を切り開き、「戦後思想の巨人」と呼ばれた。

 80年代はロック音楽や漫画、ファッションに時代の感性を探り、サブカルチャーの意味を積極的に掘り起こした「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」を刊行。時代状況への発言は容赦なく、反核運動も原理的に批判した。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 私は、自分の人生に決定的な影響を与え続けた吉本隆明という人の死に際して、これから書くべきことをすべて書いて公表しよう、と思う。彼の死から丸2日がたって、そのように思うようになった。それは、私一人の思い出話ではない。その内容は、日本国民にとっての公共領域(パブリック・ドメイン)における公共の課題(パブリック・インタレスト)に関わる大事なことばかりだ。だから、すでに ここの学問道場の掲示板の 下の方で予定しているとおり、 来たる6月2日の 「政治思想、政治の歴史 講演会」で、思想家・吉本隆明 のことも しっかり話そうと思う。

 私は、今、不愉快である。むっとしている。
さっき、ようやく新聞各紙の吉本への訃報(ふほう)の記事と追悼コメントをひとおおり、読んだ。それで不愉快になった。 皆、いい気なもんだなと思った。

 どの新聞も一様に、ひとしなみに、「戦後思想に大きた影響を与えた思想家の死」 と横と並びで書いていた。それでおしまい、か。死者を鞭(むち)打つ必要はない、か。あれほど吉本の言論の存在を嫌った者たちが。自分たちの悪の所業を言われることを、いやがった者たちが。

 私は、はっきりと書く。 吉本隆明は、”過激派の教祖”と呼ばれた人物である。そして、本人は、このことをあまり好かなかったと思う。しかし、遠くから仰ぎ見るようにして、吉本の本を熟読し(この40年間で、その冊数、実に300冊を超える)、吉本が話す講演会に機会をとらえて参加した自分がいる。だから、私はそれらの訃報記事を読んで不愉快になった。

 浅田彰(あさだあきら)は、なぜ吉本の死に際して、従来通り、一言はケンカを売らないのだ。
 
 吉本隆明は、たしかに文学者であり詩人であった。本人もそのようにして穏(おだ)やかな渡世(とせい)を一面ではしたかっただろう。だが、吉本の半分の顔は、明らかに革命家の顔でありつづけた。 そして、それは、日本で民衆革命に何度も 失敗した失意の革命家の人生だった。
 
 彼は、この50年間に、おのれの激しい言論のために、事あるごとに、孤立し、保守・体制派どころか、左翼、リベラル系のあらゆる政治勢力からも忌避され、いやがられ、政治言論人としては、おのれの思想と見識を堂々と発表する機会と場を奪われ続けた、日本で一番すぐれた政治知識人(ポリィティカル・インテレクチュアル)だった。 

 この吉本の 深い孤立感と「これでは 自分が筆一本で食べてゆくのさえ、なかなか困難だ」という生活者としての恐怖感を、私はいつも肌身に感じて、彼のそばで見ていた。 

 吉本は、日本共産党や、社会党や、その他の大きな労働組合とか、社会団体とかから、忌避されて、自分の言論の影響力が、なかなか大きく外側に、一般国民のところにまで、届かず、広がらないで封殺されることへの焦燥感と、苛立ちをずっと持っていた。彼の表面の穏やかな物腰の、誰に対しても温和な達観(たっかん)の姿とは程遠いものだった。 革命が挫折し続けたことへの、絶望感をずっと、彼は背負い続けた。吉本の悲劇はいつもそうして有った。私は、ずっと彼のこの姿を目撃していた。吉本は、明らかに日本のカール・マルクスだった。

 いつも大衆のいるところにいて、大衆と共に生きて、大衆の愛するものを愛して生きた人だった、と皆、声をそろえて、彼の死後になって、吉本を形だけ称賛するが、なあ、おまえたちよ。 

 たしかに、吉本が言った「大衆の原像へ向かう生き方」は、私たち吉本主義者の教理(きょうり)の一つだ。「共同幻想の解体」と、「擬制(ぎせい)の終焉(しゅうえん)」などと共に吉本思想の柱を成すものだ。 だが、日本の大衆が勝利することは一度もなかった。最近の小沢一郎革命(国民のための無血革命)も同じような感じで、いまにも圧殺されそうな感じだ。 私たちが感じるのは、またしても激しい幻滅と絶望感だ。

 民衆革命、民衆・国民のための政治革命は、いつもいつも敗れて、敗北して、今に至る。 だから、本当は革命家であり、敗北した革命家としての吉本隆明の、真の姿を、私は、この40年間ずっと見つめ続けたと、吉本の同行(どうぎょう)の衆(しゅう)としても言える。

 終始一貫して過激な言論人であった吉本隆明の発言や思想表明は、ほとんど国民大衆にまで届かず、理解されることなく、いつも、いつも日本の悪辣(あくらつ)な大メディア(テレビ、新聞)から意図的に、隅に追いやられ、どかされ、忌避され、押しつぶされてきた。

 吉本の言論と発言が、あらゆる議論の最中に、圧倒的に強力であり、正当であり、正義であった。 だから、日本の公共言論(商業メディアと体制メディアを含む) は、吉本隆明を心底、毛嫌いし、敵対視し、危険視して、彼が大衆、国民に影響を与えることを、封殺した。自分たちが国民をあやつり、欺き、洗脳し、上から押さえつけている、この国の支配者なのだと、自覚していたからだ。 

 吉本の激しい孤立感と焦りを、私は何度も近くで見ていた。

 吉本隆明は、300冊以上もの本を書いた(対談本や講演記録を含めて)人だから、日本国でもっと正当な評価と、有力な立場を占めるべき人だった。彼は、呼ばれれば(招かれれば)どこへでも行って、どんなことに対しても、「状況への発言」をし、おそらく 国会の場へでも出て行って、そして、その場から、日本国民に、大声て、必死に真実を訴えかけたかった人なのだ。そして国民が自分たち自身のために、決起すべきことを。私には、そのことが痛いほどわかる。

 本がたくさん出ていたから、それなりにも認められていたのだから、それで、いいじゃないか、と冷淡に人々は思うだろう。 それでは済まないのだ。問題は、吉本一個の生き死にのことではないのだ。 

 吉本隆明は、この国で、不当に低く取り扱われた、不遇の言論人だった。そして本当に不遇に終わっていったのだと、私は断言する。

 今はすっかりアメリカの手先になりはてて変質をとげた朝日新聞は、岩波書店もそうだが、吉本隆明に40年間、絶対に、書かせなかった。徹底的に無視し続けて干しあげた。全く発言させなかった。1960年安保闘争のあとから、ずっとそうだった。 以来、52年間になる。彼の言論を、日本のメディアは完全に封殺した。吉本の方が、あらゆる政治問題、社会問題において、発言を拒んだことは一度もない。

 ただひたすら、発言させなかったのだ。 それなのに、吉本が70歳を越して、1996年(16年前)に海で溺(おぼ)れて病気になって、体が弱くなったと見たら、吉本に近寄って、ほんのすこしだけ発言させるようになった。もうそろそろ牙(きば)も毒気(どくけ)も抜けて、自分たちに、襲いかかってくることはなくなったろう、と踏んで。

 本当の 危険思想家であり、生来の 過激派の言論人である吉本の発言を、そのまま全部、はっきりと掲載する商業出版物は無かったのだ、と私は思う。吉本が死んでから、「戦後最大の思想家だった」という献辞を一様に訃報として、新聞各紙は書く。が、彼らこそは、日本の民衆革命を圧殺した側の、張本人たちだ。自分たちが、日本国をあやつる支配者、権力者の側にいることを、彼ら自身はよくよく知っている。その中の、個々のの記者や編集者が、自分は 善良であり、善意であり、吉本の思想をよく理解した、などというふりなどしてみても、何の言い訳にもならない。

 日本の戦後もまた、ずっと裏切られた革命と、民衆の生活苦と、喘ぐように生きるサラリーマン大衆の苦しい日常が続いている。自分がいつ会社を首になるか分からない恐怖感の中で、大企業エリート社員たちまでが、脅(おび)えなら生きている現実が続いている。ちっともいい国にはならなかった。

 過激派の教祖として、永遠の革命家(マルクス・レーニン主義者)として生きた吉本隆明が、不遇のまま終わった、というのは、それはそれで当然のことだ、という冷酷な判断も一方でなりたつ。戦いに負けた方の人間なのでありその理論指導者だったのだから。

 日本の戦後を生きた すべての政治知識、政治運動への関与人間たちは、すべて敗北者であるのに、その自分たちの敗北を今も全く、自覚せず、その責任を感じて引き受けようとした者は今も少ない。どうせ頭の鈍い人間たちなのだ。自分のことしか眼中にないで、ペラペラと話す者たちだ。 この吉本が言った、「敗北の構造」を抱きしめたまま、私たち吉本に後続(こうぞく)する世代までが、無残な夢破れた、あれこれの政治参加のあとの、慙愧の無念の 残生(ざんせい)を生きているのである。

 私は、もっともっと吉本隆明について、彼の死を契機にして、書きたいことがある。追い追い書いてゆく。それに連れ添う一人一人の同時代の日本知識人たち(今や、私の同業者たちだ)への素描や、厳しい評価もこれから書いてゆく。私は、なにごとも隠さないで自分が知っている限りのことを正直に書いて残してゆくつもりだ。

 吉本が死んだ知らせを受けて、私は、すぐに彼の家に行こうと思った。が、親しい編集者から「家族だけで、ひっそりと葬儀をするそうだ。騒がないで静かにしていてほしい」と言われたので、私は、吉本隆明の家に弔問に行く時間を昨日、逸した。 ところがその編集者は、自分は吉本に家に上手に入って、吉本の死に顔を、昨晩、拝んでいるのだ。しまった、と私は思ったがもう遅い。他の編集者たちは、メディアの人間たちと一緒に吉本の家の前で、ずっと昼過ぎまで立っていたという。 

 その人からも話は聞いた。 そして自分の知るかつての吉本主義者たちに、連絡を取ってみた。が、ほとんどは、もう耄碌(もうろく)ジジイになり果てていて、自分自身が、70歳が近くなって、身動きが取れないような状態の者ばかりだ。老いさらばえたかつての活動家たちの姿だ。

 今日17日の夜がお通夜で、明日が告別式(葬式)だと聞いた。どこの斎場で式が行われるのかも、まだ分からないが明日は、私も出かけてみようと思う。

 死者を送る、野辺送りが、「本人と家族の意思で、そっとしておいてほしい」ということであれば、そのようにしてあげるのが、たしかに思慮のある人間の取る行動だ。しかし、本当にそれでいいのか。 吉本隆明の遺体(死体)は、その家族(遺族)のもの(所有物)であるから、その処分の判断に従わなければどうせ済まない。 吉本隆明自身は、「家族葬か、出来れば町内会の主催でやってほしい」と言っていたという。もうそういう時代でもない。

 だが、密葬で、家族・近親だけで静かに執り行いたい、と言われて、はい、それに従います、というだけでは、私はどうも済まない気がする。公人(パブリック・パーソネッジ public personage )には、公人としての 果たすべき役割がある。いくら敗北した民衆革命の悲劇の指導者、革命家の死であると言っても、ひっそりと済ませて、葬儀の場所も公表しない、ということでいいのだろうか。

 すすんで自分も葬儀に参加したい、というかつての吉本隆明の本の熱心な読者たちを葬儀場に受け入れるだけのことは、するべきではないのか。 往年の吉本主義者たちは、今は、もうほとんどが65歳以上のジジイ、婆(ばばあ)たちだ。それを全共闘世代(ぜんきょうとうせだい)という。 

 そういう人が、まだ少なくても一万人ぐらいは生きている。 私は、今58歳で、吉本主義者の下限の年齢の人間だ。本当に私より若い歳の人間で、過激思想家・吉本隆明に のめり込んだ者はあまりいないはずだ。糸井重里(いといしげさと)と坂本龍一(さかもとりゅうちい)でも私より数歳は、上だ。

 社会的に公人(こうじん)の死者の死体(遺体)は、本当に家族、血縁者たちだけの所有、処分物でいいのか、と私は思う。 言論人、作家、芸能人 も民間人であるから、公職にないから、私的な私人としてのひっそりとした死に方を選ぶなら、それでいい。 だが、敗北した民衆革命の偉大な思想家の死 を(そう思う人たちが現に、一万人ぐらいは今もいる以上 )それを、国民的な課題として大きな葬儀が行なわれない、というのは、私は、どうも間違った考えだと、今、思うようになった。

 死んでしまった吉本を、偉大な思想家でしたと、称賛するだけなら、それは口先だけのことだ。ふざけた連中だ。 しんみりとしてみせるだけの、自分が温厚で、世間体(せけんてい)と秩序を大事にする常識人として振る舞いたいだけの 偽善有名人たちの 偽善者の追悼のコメントを、私は、読んで、本当に腹の底から不快がこみ上げた。 

 石原慎太郎というアメリカへの買弁(ばいべん)人間の元文学者 ( 三島由紀夫とは比べ物にならない、愚劣な、反革命の右翼人間だ )までが、吉本を褒めて追悼していた。吐き気がする。どうして、石原は、あれほど毛嫌いしたはずの、敵の吉本を、褒めるのだ。お前は民衆を毛嫌いする反革命なのだ。それが、死者を弔うに当たっての、大人の態度だからということになるの、か。本当に、ここまで悪質な完全な政治人間にまでなりあがったものだ。自己愛しかないくせに。

 今の、ひどい不況下(本当は恐慌のさなか)の日本では、「もう葬式はいらない、戒名(位牌、いはい)もいならい、坊主のお経もいらない、墓もいらない。骨は砕いて草木に撒けばいい(樹木葬)」という時代である。そういう本が、何冊も出て理解者を増やしている。

 ごくごくの近親者だけの、内密の密葬(みっそう)で家族葬だけでやっておしまい、というのは、一般人の場合は、それでいい。もう葬式どころか、家族もいなくて、アパートで孤独死して、死体を市役所の職員が片づけに来る、という死に方が増えてゆくだろう。 だが、吉本隆明までも、そのような貧しい庶民の葬式でいいとは、どうも私は納得がゆかない。 一切の華美で派手な形だけの葬式は、もう贅沢で醜悪なだけだ、という時代なのか。
 
 だが、私は、この考えと風潮に逆らう。そのようにたった今、決めた。
吉本隆明の魂(たましい)を十分に引きずっている私は だからこそ自分の葬式は、公然と、きちんとやってもらおうと思う。今のうちから家族(奥さんと息子)と、それから弟子たちに頼んでおく。これからその手順の希望を彼らに提出する。
 
 自分の死体が、病院から出されたら、そのまま葬儀場(メモリアル・ホール)に運んでもらって保冷剤で冷やしたまま、3日間、通夜と告別式まで、ずっとそこに置いて、棺桶の中の死体を、衆参者に見せるべきだ。
 それが世界基準(ワールド・ヴァリューズ world values )の葬式というものだ。 だから私の場合は、3日間の間、葬儀場に死体があるから、時間の都合のつく人で来たいという人には全員来てもらいたい。そして、そこに、そまつな食事と安い酒をふんだんに準備して、盛大に3日間、宴会をやってほしい。葬儀場は料金さえ払えば、これぐらいは当然してくれる。

 そこには、私の筆で、「ここでは余計な話はしないで、副島隆彦のことだけ話してください。悪口はいくら言ってもいいです。マイクを準備しておきますから、発言したい人はどんどん発言してください 」 と書いて遺しておこうと思います。それが、人が集まってこその葬式(野辺の送り)というものだ。
 
 私は、今、「阿弥陀如来(あみだにょらい)と、観音菩薩(かんのんぼさつ)と、弥勒菩薩(みろくぼさつ)というこの3人の ”女神”は、一体、何者なのだ。どこから来た人たちなのだ。お釈迦様(ゴータマ・ブッダ)と別人じゃないか。

 本当は、イエス・キリストの奥様だった、マグダラのマリアさまだろう。この2千年間、ウソばっかり、民衆に教えるなよ」という本を書いている。この本は、絶対に夏までに出す。

 阿弥陀さま、観音様に、すがりついて「助けてください。助けてください。私たちを、動物みたいに残酷に扱わないでください」 と、「弥陀(みだ)の本願(ほんがん)」にすがりついた、貧しい民衆を、キリストも 釈迦(ブッダ)も 「よし。助けてあげよう」 と、必死で闘った。 ・・・・そして、実は、民衆を救済(サルベーション)することは出来なかった。 

 裏切られた革命だ。 人類の歴史は、そのようにして、ずっと悲しく、みじめに続いて、今に至る。 吉本隆明は、この他力本願(たりきほんがん)の、浄土門 の親鸞上人(しんらんしょうにん)の 、民衆救済 の思想を生きた思想家だ。 

 それに比べて、中国で、7世紀に起きた 禅宗(ぜんしゅう)は、日本にも伝わったが、その本態、本性は、小乗(しょうじょう、ヒーナーヤナ)仏教であり、「民衆の救済などできない。ありえない。自分一人を救済するための修行に打ち込め」という自力(じりき)の思想の、いやらしい エゴイズムの仏教である。こっちが金持ちと、支配者のための仏教となる。 

 この世は、自力(じりき)だけであり、他人の救済など知ったことではない、という悪意の 十分に、真この世の、大人(おとな)たちの支配する世の中である。

 私は、吉本隆明から、40年間、学ぶだけ学んだから、何でも受け継いでいる。 吉本隆明を支えた革命への幻想、あるいは幻想の革命 から、少し離れて1994年からは、自分の足で歩き始めた。革命はもう無いあとの、自分の生き方を必死で切り開いた。ここでは、私は、自力本願に学んだ。 

 だが、それでも、私、副島隆彦もまた、吉本の後に続いて、最期まで、民衆救済のための知識人、言論人として生きて、死んでゆこうと思う。 

 自分は、権力者や支配者の冷酷な自力(自分だけの救済で十分だ)の思想の方には行かない。だから私のために、集まってくれる人が集まって、私の葬式をにぎやかにやってもらいたい。 

 日本が生んだ悲劇の民衆思想家として、その恵まれず、かわいそうだった 吉本隆明 の魂を、私は引き継いで、ひきずってもうあとしばらく生きよう。そして、次の世代に、日本における 真の過激派の思想 というものの 強靭な遺伝子をあとに繋(つない)いでゆく。この灯を消すわけにはゆかない。  

追悼、吉本隆明 先生 。

副島隆彦拝


(転載貼り付け始め)

● 「 時代と格闘したカリスマ 若者を引きつけた吉本思想  」

2010年、東京 
2012年3月16日 スポニチ 

 16日亡くなった評論家吉本隆明さんは、常に時代と真正面から向き合い、格闘を続け、鋭い言論で若者たちに大きな影響を与えた「カリスマ」だった。

 既成の左翼運動を徹底批判して新左翼の理論的支柱になった吉本さん。1968年に刊行した「共同幻想論」は難解な思想書でありながら、全共闘世代の若者に熱狂的に支持され、同書を抱えて大学のキャンパスを歩くのが流行した。

 高度消費社会を積極的に評価した80年代には、女性誌「アンアン」にコム・デ・ギャルソンの服を着て登場。その姿勢を批判した作家埴谷雄高さんと資本主義や消費社会をめぐって激しく論争した。

 若者を引きつけた吉本思想の根底には、一般の人々の生活を立脚点とする「大衆の原像」と呼ばれる理念があった。「大衆の存在様式の原像をたえず自己の中に繰り込んでいくこと」。自らも含めた知識人の思想的課題をこう定めた吉本さんは、60~70年代の新左翼運動でも、消費社会化という時代の転換点でも、常に「大衆」と共にあった。

 戦後知識人の転向問題からアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に至るまで、批評の対象は驚くほど多岐にわたり、文学も思想もサブカルも同列に論じた。残された数々の著作は、一貫して時代と格闘し、「大衆」と共に歩んだ「知のカリスマ」の足跡でもある。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

   *   *   *   *   *

’87年9月12日14時から9月13日14時まで、東京・品川のウォーター・フロントにある寺田倉庫T33号館4Fで行われた「いま、吉本隆明25時―24時間講演と討論」と題するイベントに、もう吉本とのつきあいも卒業か、その前に一度生の話を聞いておきたい、その気持ちで参加した。そこで何が話されたかはあまり記憶にない。当時引退中の都はるみさんが中上健次さんと一緒に出てきて、アンコ椿を熱唱してくれたのを聴いて、来てよかった、得したと思った。たしか終盤になって元気のいい人が質問に立ったのははっきり覚えている。それが副島さんだったと後で知った。終わって帰途、来ている人たちはみんなひとりづつで、誰も何の会話もなくただ黙々と駅に向かう様子がなにか異様だった。吉本という人はこういう人たちに支持されているんだなあとあらためて思ったことだった。
by めい (2012-03-18 09:20) 

阿羅漢老人船木裕

「反原発」で猿になる ! (吉本隆明)を読んで 2012.3.15
「週刊新潮」2012.1.5-12のインタヴュー記事を読んで唖然とした。かつて、吉本隆明を自立の思想家として高く評価し、「試行」にも投稿した一人として、なんともやりきれない気持ちになった。
ここで開陳されている言い分はほとんど反駁するのも馬鹿ばかしい底のものだ。「考えてもみてください。自動車だって事故でなくなる人が大勢いますが、だからといって車を無くしてしまえという話にはならないでしょう」だって! こんな子供だましの理屈が通用すると思っているのか。また、核分裂による原子力発電と放射能によるレントゲン写真技術を並べて安全性を論じるなんて詭弁そのものだ。
吉本は科学技術の進歩への素朴な信仰にしがみついているに過ぎない。スリーマイル島・チェルノブイリ・福島という一連の大事故が当時の原発技術の先進国(米国、ソ連、日本)で起っていることを深刻に受け止める必要がある。しかも、これらは三十年そこそこの間に引き起こされたではないか。現在でも中小の原子炉事故は頻繁に報告されている。原発をめぐる議論の中心にある「恐怖感」について云々しているが、もっか国民の間に淀んでいる過度の放射線への恐れは、昨年の福島原子炉の深刻なメルトダウン(炉心溶融)事故による膨大な放射能の拡散と広範にわたる自然破壊・人体汚染という「歴然たる現実の脅威」のもたらした結果であることに目をふさいでいる。激しい爆発による発電所の災害の惨状は一連の写真で記録されているではないか。事故後一年の現在でも、爆発事故原因の究明も進まず、圧力容器の内部は放射線が高く危険なため手がつけられぬ状態である。吉本は未曽有の惨禍から何も学んでいない。「福島」原発の大惨事なぞまるでなかったかのようだ。
このインタヴューには、現実の脅威や惨状を直視する姿勢がいちじるしく欠落している。こうした現実感覚の鈍さは一貫しており、まさに恐るべきものだ。
事故を起こした発電所の中に現在も放置したままの、危険な使用済み核燃料はどこに運ぶのか、科学的にどう処理するのか。といった当面の技術的な方法や処置についても、ほとんど考慮する気配さえない。
その代わりに人類史的な観点からの原子科学の素晴らしさと優位性への賛美が繰り返される。「人類が積み上げてきた科学の成果を一度の事故で放棄していいのか」というわけだ。名にし負う理科系詩人吉本隆明、お得意の「原理的」な考察とやらである。こんな居丈高なご託宣に惑わされてはならない。むしろ、ここに思想家、批評家としての知的誠実さへの欠如を指摘せざるを得ない。
 ここで、ある素粒子物理学者の文章を紹介しておこう。「核融合炉の誘致は危険で無駄」(小柴昌俊)「朝日新聞「論壇」2001.1,18」これは「物理学を学んできた」立場からの「核融合」(「二十一世紀の夢のエネルギー源」! )についての意見である。原子力や放射能に関心ある方は一読されたい。ここには知的誠実さがある。
最後に、唐突に小林秀雄を担ぎだしたのには、あきれたというより、笑ってしまった。自立の思想家はどこへいったのだ。虎の威を借りる
狐さながらだ。思想家としてみずから墓穴を掘ったにひとしい。
 スリーマイル島・チェルノブイリ・福島の原発大事故から何一つ学ばぬ者はむしろ「猿にも劣る」というべきである。 
3.11には「東日本大震災市民のつどい」(東京・日比谷公園)に参加した。
「さよなら原発」のために、老骨に打って、これからも静かな怒りを燃やし続けたい。

阿羅漢老人 船木裕

「後記」この一文を書いた直後,思いがけず、吉本隆明の訃報を知った。  生前の吉本さんに見せたかった。合掌(5.20本文一部変更)


by 阿羅漢老人船木裕 (2012-03-23 11:51) 

めい

「読むに値したポスト誌の吉本隆明追悼記事」と題して画像がありました。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-50c5.html
by めい (2012-04-08 01:01) 

井上達也

吉本隆明は高校時代に先輩に教えられて以来、ずっと気になる思想家でした。
最初に読んだのが詩集、次に共同幻想論。
八戸に住んでいたころ、岩手大学の文化祭に来るということで、みんなで講演を聞きに行ったことがあります。
左に行くと、彼は右翼だ となり(東中野にあった新日本文学学校に顔を出していたことがあり、共産党から分派した人たち  井上光晴とか)、右に行くと、彼は左翼だ となるジャンルでは色分けできない人として信じられる人でした。
福島原発について見解を聞きたかったです。
by 井上達也 (2014-09-08 15:23) 

めい

置賜タイムス社にあった、井上さんが吉本について書かれた本を手に取ったのが、井上さんのお名前を知った最初でした。

by めい (2014-09-10 04:26) 

井上達也

わっ! ありがとうございます。
おととしだったか、石原慎太郎がなにかつっこまれてか、「それは共同幻想だよ」といったのをニュースで見て、昔の人だなあと思ってしまいました。
とにかく吉本は一世風靡したことは間違いないです。オウム真理教や原発でズレているといわれましたが、鈍いところがあることはあるみたいです。だから原理主義(原理論者)に傾いたのでは、と思いました。
九州のある新聞に掲載したエッセー、写真を趣味でしているという趣旨の文を読んで、なんだかぶきっちょさんのような印象がありました。そこらへんから、風になびかない原理主義を取るようになったのかあ。
「わたしはマルクス主義者にはならない。マルクス者になる」という言葉に出会ったときは何のことかわかりませんでした。似たようなことで「わたしはキリスト教者にはならない。キリスト者になる」ともいってたはずです。イスラムのタリバンやブッシュ元大統領の支持母体のキリスト教団体が「原理主義」だということを聞き、その言葉を知った時、合点がいきました。
仙台の大学の学長だったか理事長だったか、ある機会に質問した時、「わたしは原理主義だ」といってました。世間に流布している過激なニュアンスよりも、マルクスやイエスにまっすぐ向き合うということ、というように理解しました。
吉本もマルクスやイエスに向き合って、思考回路を体得したんだろうなあと恐れ入った次第でした。
大学1年生のとき、彼の詩はとてもかっこよく愛唱しました。

by 井上達也 (2014-09-10 18:01) 

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