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神道への回帰? [賀川豊彦]

あれから1年、3月11日だ。
当然のことながら、死と共にその人の記憶は消える。安藤孝行教授が「文字として記録することによって魂は不死を得る」 と語られたのを思い起こす。このところ古い記憶をたどらせられることが多い。
 
「賀川豊彦」で検索していて、京都大学のキリスト教学科芦名定道教授の父芦名直道氏による「我が家族史」に行きあたった。その中に
≪昭和27年4月 、良子と能子は賀川豊彦の勧めにより宮内教会再建と幼稚園開設のため宮内の牧師館に移り住む。≫
とあるのを見つけた。
「良子」は直道氏の妻、つまり定道教授の母であり、「能子」は直道氏の妹である。良子先生については記憶がないが、能子(よしこ)先生は私にとって忘れようにも忘れられない先生だ。私の叔母がこの幼稚園に勤めたため、開設まもなく、私はそれまで通っていた保育園から無理やり転園させられた。そのとき必死で抵抗したことがはっきり記憶にある。その私を迎え入れてくれたのが能子先生だった。私が「教育された」と自分で意識できる最初の先生だ。この先生に出会わなかったら、その良し悪しはともかく全然ちがう人間になっていたにちがいない。

能子先生は神学校をでたばかりの宮越文次郎先生との新婚間もない時だった。隣地との境にほんとに小さな小川が流れていたが、日々のおかずはそのほとりで摘んだ野セリだったとか、その貧しさについてはいろんな話が伝えられている。当地には6年余りおられたが、御子さんを授かったのは次の赴任地湘南の二宮町に移られてからだった。その話を伝え聞いて、町の人たちは、ご夫妻はやっと落ち着いた暮らしができるようになったのだなあとほっとしたのをおぼえている。私は卒園してからも宮越牧師在任中はほとんど皆勤で日曜学校に通っていたから、その間賀川豊彦という人については少なからず聞いていたことと思う。学生時代の釜が崎志向はこのとき植えつけられたもののように思える。

「我が家族史」で驚いたのは、
≪明治39年4月、ふじ、宮城県立高等女学校に入学、祖父十郎が青葉神社の社司となったので身の回りの世話のために神社に同居して学校に通う。≫とあったことだ。「ふじ」とは能子先生のお母さんで、
≪明治25年3月7日、ふじは仙台市に父一條伝と母八重の長女として生まれ、・・・大正8年1月23日、(芦名武雄が)仙台キリスト教会員一條ふじと荒町教会で結婚、23歳。≫とある。つまり、能子先生の曽祖父がなんと青葉神社の宮司さんであったのだ。

実はふじの夫、つまり能子先生の父親である芦名武雄についても、
≪大正元年8月30日、武雄、宮城県の神社祭式講習を受ける。
大正9月10日、武雄、県神職会より奨学金を得て国学院大学史学科、皇典考究所に入学。
大正12月25日、武雄、宮城県知事より社掌資格を授与さる。≫とあり、能子先生は両親共に元来神道の家筋だったのだ。

『回心の軌跡―神官より牧師となった芦名武雄の生涯』(芦名直道著 キリスト新聞社)があることを知り手に入れた。

十郎についての記述がある。青葉神社初代神主で、仙台藩侍講一条坦の長男。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通らとの交流があり、とりわけ藤田東湖の精神の感化を受け、伊達藩中では数少ない開国尊王論者であったと言う。戊辰の役では仙台軍の参謀長格を担ったが、敗戦後仙台近郊で開墾事業に従事した後、青葉神社の神主になった。
≪仙台維新史の生字引と言われた人であったが、ヤソ教には大反対であった。その人が朝夕寵愛して育てた一人娘のような孫、ふじが断然としてヤソ信者となった。青葉神社社務所より、ヤソ教伝道者の妻が生まれたのである。≫(『回心の軌跡』p.144)
能子先生の母親である「ふじ」さんは、よく幼稚園に来られていた。意志の強そうなおばあさんの記憶としてある。

私にとって最初の先生が神道からキリスト教に回心した家系の中にあったとは。しかも、私が二十年来御縁をいただく青葉神社に深いゆかりがあったとは。私が結局神道に還り付いたこととも思い合わせ、縁の不思議さに感じ入っている。


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めい

アシュケナージユダヤ←ハザール←突厥(タタール)←阿史那(あしな)氏
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fha200.html

   *   *   *   *   *

タタール人と会津葦名氏
2008/3/30(日) 午後 8:59
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/52749356.html

上図 紀元600年頃の突厥疆域図『ウィキペディア(Wikipedia)』
西突厥: 明るい色の線の領域が直轄地。暗い領域は影響領域
東突厥: 明るい色の線の領域が直轄地。暗い領域は影響領域

写真下 会津葦名氏の家紋

ウィキペディア(Wikipedia)より、タタールについて調べてみた。
私の持っている知識以上に世界に広がっている民族であることがわかった。
多少長くなるが、多くはウィキペディア(Wikipedia)を引用しながら、私の感想も挿入してみたい。


『モンゴル高原東北のバイカル湖方面のモンゴル系遊牧民のことをタタールと呼んでいたという。
もっとも古い文献としては、突厥(とっけつ、とっくつ)の石碑に突厥文字でそう記載されている。

突厥とは、6世紀から7世紀ごろ中央アジアに存在した遊牧民族のことで、それが中央ユーラシアに覇権をうちたてた遊牧国家名でもある。
アルタイ山脈の麓に住んでいた。

突厥は「テュルク」(トルコ)を漢字表記したものと考えられ、その可汗の一族の属した氏族は阿史那氏と呼ばれる。

西突厥の可汗に葉護可汗(ヨウゴハーン)という人物がいる。(552年~575年)
岡山大学文学部の教授小林恵子氏の書いた『聖徳太子の正体』の中で、葉護可汗その人が日本へ渡って聖徳太子になった可能性があると書かれていた。(と記憶している。)

また、突厥の「アシナ氏」と聞けば、会津の葦名氏または蘆名氏を想起する。
元々の姓の由来は、現在の『横須賀市芦名の地名』であるが、文字がない世界では音読みが伝播するだろうから、突厥の阿史那氏の末裔であるような気がする。

会津の歴史に深く長く静かに存在する古代キリシタン(景教)の足跡はそれを示唆しているように思われる。

葦名氏の家紋は三つ引両(桓武平氏三浦氏流)であり、その図柄は漢字の三を丸で囲ったもので、素朴に『三位一体』を示す紋であろう。
山鹿素行や祖心尼はその会津藩に住んでいたのである。

紋章が丸に数字という点では、島津氏の「丸に十字の紋」に近いデザインコンセプトであるが、島津氏とキリシタンの関係はザビエル以前からあったはずである。
私は島津氏が松浦水軍(倭国の末羅(まつら)国の末裔)に委託して、ザビエルの派遣をインド副王へ要請したと思っている。
ザビエルと日本人の最初の邂逅のシーンがあるが、そこに3人もの日本人がいたことは彼らをマラッカへ派遣した有力な人物の存在を思わせる。

 葦名氏は桓武平氏良文流三浦氏の分かれで、相模国の豪族三浦義明の七男『佐原義連』がその祖で、坂東一族の一つである。
1180年の石橋山の合戦や奥州攻めで源頼朝を助け軍功をあげたことから、佐原義連は会津・河沼・耶麻の諸郡を与えられた。
つまり佐原義連が会津を初めて領有した人であった。
13世紀には、一族の和田義盛や宗家三浦氏が滅亡したが、三浦佐原氏は北条氏に加担して没落をまぬがれている。

 佐原盛連の四男光盛(義連の孫)が相模の地名「葦名」にちなみ初めて葦名氏を名乗るようになるが、一般的には義連を葦名氏の初代として数えている。

戦国時代に英主・蘆名盛氏が現われ最盛期を迎え、奥州で伊達氏と並び称される有力大名にまでのし上がっている。

この会津葦名氏は、突厥の可汗一族の属した氏族『阿史那氏』であろうか。
もし桓武平氏の葦名氏が突厥(トルコ系)だとすれば、あながち源氏の義経が騎馬民族説であることも根拠のない噂ではないだろう。

隋帝(女帝)は、中国の西域の警備保障軍隊として葉護可汗(ヨウゴハーン)をアウトソーシングしていた。
倭国の皇帝も彼らを傭兵として用いた可能性は高いだろう。
部族により源氏、平氏を名乗らせたか、一部族が両派に分かれたかである。
征夷大将軍という名を与えたが、古代のこの国の人々がほとんどさまざまな渡来人だけで構成させれていたことを思えば、夷(外国の人)を征服する将軍という名は皮肉なものである。
尊皇攘夷ということばも同様に皮肉なスローガンと言えるだろう。

後に述べるタタール人という意味の古テュルク語『Tatar(タタル)』も「他の人々」を意味することばである。
遊牧しながら混血を繰り返していった騎馬民族が、自分たちを「他の人々」と呼ぶことにも「征夷」や「攘夷」と同じようなパラドックスが含まれていることを私は感じる

by めい (2017-02-19 07:35) 

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