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安藤孝行教授のことなど(承前) [大学紛争]

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もう少し、あの時代を掘り起こしたい。

安藤教授はたしかに大きな存在としてわれわれの前に現れた。大所高所に立ってご高説を垂れたもう大先生としてではない。アリストテレスに関しては世界的に著名な学者とは聞くが、高々10数人の学生を前に語る安藤教授からその権威を感じ取ることはできない。感じ取るにはこちらにもそれだけの学識が必要なのだったのだろうがその持ち合わせがあるわけではない。私が共感したのは、何かの手違いで4人の学生しか集まらなかったとき、当時上梓されたばかりの『エピクロスの園』なる自著をめぐって、教授の死生観を語られたことに対してだった。教授の本来の業績である存在論のなんやらかんやらに対してあれこれ言えるはずはなくとも、高校の倫理社会の教科書にも快楽主義者として出てくるエピクロスであれば、それなりの感想も持ちうるわけで、そのとき何を思ったかを当時のノートから書き写すのはこっぱずかしいのでやらないが、そのレベルで教授の「思想的雰囲気」に共感したのだった。今思えば「こっぱずかしい」。振り返って言えば、安藤教授は私にとって、こっぱずかしい時代の最後に出会った大きな人だった。正直なことを言うと、『当世畸人伝』に出会うまでは安藤教授のことはすっかり私の頭の中から消えていた。この本であらためて、わたしが当時ふれた安藤教授は、大きな氷山の一角でしかなかったことを知らされたのだ。 
 
さて、「こっぱずかしい時代」が終わった時から、今につながる自分が始まっている。その時期は大学紛争の始まる1年ちょっと前、2回生のころから過渡期に入る。だから3回生の後期にはじまった大学紛争に距離を置けた。2回生のとき、寮の委員会で食堂の係を担当し、炊婦さんとの折衝やら、募集やらで目先のことでばたばた走り回りもしていた。夏休みにわざわざ大阪西成の釜が崎まで行って拾ってもらい飯場暮らしもした。(これはどうも賀川豊彦先生にその影響の遠源があるように今思える。教会の日曜学校で聞かされていたにちがいないから。)高橋和巳を読み始めたのもこの頃だった。高橋和巳から次第に吉本隆明へと比重が移っていく。女子寮、青桐寮との合同の寮祭で「四季」という劇をやったのは3回生の秋。当時の自分たちの10年後を想像した劇だった。二晩か三晩で一気にできた脚本だった。抽象論で理屈をひねくり回していた時代から徐々に現実の自分に直面させられるようになってきた。実は、このことは安藤教授のおられる言わば「形而上学的世界」からの別離だったのだと思う。結局私の行き着くところはメルロー・ポンティというわけだった。メルロー・ポンティに言わせれば、安藤教授の思考は「上空飛行的」ということになる。

実は先の「全共闘挽歌」のあとに次の文章が続く。

≪紛争とはまったく別に、岡山大学在職中の安藤は教授会の席上、急に怒声を発して退場するやうなことが、一再ならずあった。あるときの教授会では威勢のいい言語学の田中克彦に、議論の末怒鳴りつけられ、安藤が急に悄気 かへったこともあつたといふ。≫(『当世畸人伝』p.101)

田中先生については存じ上げないが、安藤教授より23歳年下で「左翼的立場からする言語論を多く執筆 」とある。田中先生の苛立ちもなんとなくわかるし、安藤教授の悄気 かえる様も、なぜか可哀らしく思い浮かぶ。決して体面を取り繕ったりする人ではなかったから、悄気るときには本気でとことん悄気られたことと思う。幾分シニカルな笑みをたたえて語られる平生の面影も思い浮かんで懐かしい。

安藤教授のようなアカデミックな存在を相対化してしまったのが大学紛争だった。私は大学をやめようとおもってやめきれず結局6年間お世話になった。4年間で終わっていたらメルロー・ポンティにも出会わず、何も残らなかったように思う。自分の思うままに過ごせた2年間は、ほんとうにぜいたくな2年間だった。

思いがけず40年前の記憶を甦えらせることになった。今思えば、こっぱずかしい時代の感覚をもって始まり、そのこっぱずかしさを相対化する結果を生んだのが「大学紛争」であった。しきりに「自己否定」が言われたゆえんである。 


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