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「モモ」を読むーーますみのむすび [思想]

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ミヒャエル・エンデ著『モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語』を読んだ。

実は20数年前、4分の1ほど読みかけてそのままになっていた。その時、もっと落ち着いた気持ちで読まねばこの本に申し訳ない、そんな気持ちで大事に取っていた、そう言ってもいいかもしれない。ちょうどその頃書いた文章があった。(「週刊置賜」昭和60.1.1)

(転載はじめ)

昭和60年は戦後40年。終戦の昭和20年から時代を前へさかのぼると日露戦争終結の明治38年になる。あらためて40年の歳月の深さを思い知る。教育臨調審議が本格化する今年は、戦後教育の問い直しに並行して「この40年間、日本人は何を得、何を失ったか?」が問われそうである。
せわしなく飯をかっこんで箸を置いたら、米粒が飯椀の底にくっついていた。箸をもう一度持とうとして、「まあいいや、どうせ米は余っている。」チラッとコンバインでの収穫風景を頭に浮かべつつ、ついそのままにした。そしてそのあと、そうした自分に愕然とした。「一事が万事、すべてがこの調子ではないのか。歯止めがなくなっている。」
せわしさの中に身を置くことが最大の価値である。
「忙しくていい案配だなっす。」本当に心底「いい案配」なのだ。「忙しかったもんで。」の一言ですべてが赦される。「忙しさ」が生活の全局面を占領しつつある。
唐突であったが、この問いかけが「三島由紀夫はなぜ死んだか?」の問いに重なった。「忙しさ」が日本人のわれわれになにか「肝心なこと」を忘れさせた。三島由紀夫が死を賭して訴えかけたのがその「肝心なこと」だったのではあるまいか。そんな気になったのである。
(中略)
(三島由紀夫の『文化防衛論』によれば)日本人の美的感覚、倫理感覚の淵源は、天皇にその源流をみる美的価値「みやび」にあるという。いま、心のうちを省みて「みやび」に感応しうる部分がどれだけ残っているだろうか。「すさみ」への道をひた走っているのではあるまいか。目先のせわしさに明け暮れるわれわれに、三島由紀夫は冥界から問いかけているように思えたのだ。

初春や駆け出す前の一呼吸

(転載おわり)

どこかおかしいとは思いつつ、まさに「忙しさ」の真っただ中にいた時期だった。『モモ』の時間泥棒が気になった。ゆっくりした気持ちで読まねば、でもいまはそのゆとりがない、いつかきっと読む時期がくる、それまで待っていて、そう思いつつ20数年、そして今年を迎えた。

きっかけは鬼塚英昭氏の『世界最終恐慌への3000年史 時間とマネーを支配する怪物の正体』。この本は、出だしは「これはすごい!」と期待をもって読み始めたのだが、いまのところとても読みこなせず、その出だしに出てきた『モモ』を手に取ることになった。私にとっていま『モモ』を読んだのは、松岡正剛氏言うところのまさに「読機」であり「旬読」であった。

時間泥棒の「灰色の男たち」にすっかり侵されてしまった中で左官屋ニコラが言う。

≪「なあ、おれは今どうなっていると思う?もうむかしのようじゃないんだぞ。時代はどんどん変わるんだ。いまおれのいるむこうじゃ、まるっきりちがうテンポで進んでいる。まるで悪魔みたいなテンポだ。一日でビルの一階まるごとができあがっちまって、それが毎日、つぎつぎとできていく。まったくむかしとはまるでちがう!なにもかも組織だっていて、手をひとつ動かすにもプランどおり、いいか、ひとつのこらずきちんと決まっているんだぞ・・・・・・・おれはまたちっと飲みすぎたよ。いまじゃこれもしょっちゅうなんだ。そうしないと、あそこでやっていることに、がまんしきれなくなるのさ。まっとうな左官屋の良心に反するような仕事をやってるんだ。モルタルにやたらと砂を入れすぎるのさ、わかるかい?これだと4、5年はもつけど、そのうちに咳をしただけでも落ちるようになっちゃうんだ。インチキ工事さ、卑劣きわまるインチキ工事さ!ところがそれだってましなほうだ。いちばんひどいのは、おれたちがあそこで建てている家だ。あんなものは家じゃない、ありゃ――死人用の穴ぐらだ!思っただけでも胸がむかむかするよ!だがな、そんなことおれに何の関係がある?おれは金をもらうそれで結構さ。そうさ時代が変わったんだ。むかしはいまとちがって、おれは人にみせられるほどのものを建てて、おれの仕事をほこりに思ったもんだ。だがいまじゃ・・・。そのうちにいつかたんまり金がたまったら、おれはじぶんの仕事におさらばして、なにかべつのことをやるよ。」≫(7章 P.108)

先日テレビ(TVシンポジウム「支え合う!地域力~“地方の時代”映像祭2011~」NHK 24.1/7)で飯館村の菅野典雄村長が語っていた「マデイライフ」を思った。この辺でも「までぃな仕事」と言うが、「真手(まで)」という古語が起源という。はじめて知った。手間ひま惜しまず、丁寧に、心をこめて、といった意味で使う。私自身、手仕事に関わっているのでこの感覚はよくわかる。しかし、それがどんどんないがしろにされてきたその流れが、むしろ「までぃ」感覚以上によくわかってしまう。灰色男に侵されてしまったニコラがむしろ近くなってしまっている。いかに効率よく仕事を終わすか。いつも金勘定が頭を占める。
「までぃな手仕事」だけをやっていたのでは金が追いつかない世の中だ。「食えればいい」で済む時代ではない。じっとしていても金がかかる。税金も大きいが保険料はその最たるものだ。効率化のために機械を入れる。借金だ。利息を上乗せして支払わねばならぬ。衣食住に金が回るのはいちばん最後。ひたすら金に追われ時間に追われる。そうして作られたもので身のまわりは溢れかえっている。「経済成長」というドグマに捕らえられてしまったがゆえのいたちごっこ(一つのマイナスの状態が他のマイナスの状態を引き起こすという悪循環)だ。飯館村はそうした現実への挑戦だったはずだ。福島原発がそれを断ち切った。その無念さはいかばかりか、菅野村長の淡々とした語り口からかえって伝わった。

モモを返してもらうために灰色の男から10万時間を貯蓄することを約束させられたモモの年取った親友掃除夫ベッポ。

≪彼はほうきを出し、それを持って町に行き、道路を掃除しはじめました。
 でもその掃除の仕方は、もう以前のように、ひと足進んでは一呼吸、ひと呼吸ついてはほうきでひとはき、というのではありません。せかせかと、仕事への愛情など持たずに、ただただ時間を節約するためだけに働いたのです。彼にはくるしいほどはっきりわかっていました。こういう働き方をすることで、彼はじぶんの心のそこからの信念を、いやこれまでの生き方ぜんぶを、否定し、裏切ったのです。≫(13章 P.245)

仕事が、何か別のことのための手段になってしまう。いまの世の中、多くがそうか。

灰色の男のひとりが、モモに秘密をしゃべってしまったことで裁判にかけられる。

≪「わたくしは、時間貯蓄銀行のためによかれとのみおもってやりました。」
「きみがよかれと思ったかどうかなどは、どうでもいい。」と裁判官はひややかに言い返しました。「だいじなことは、その結果がどうだったかということだけだ。」≫(9章 P.155)

結果よければすべてよし、すなわち目的のために手段を選ばず、ひいては未来のために今を耐えよ、この論理がいかに世を穢し、また犠牲を強いてきたことか。

モモの場所はその対極にある。
時間の国のマイスター・ホラがモモに出したなぞなぞ。

≪「3人のきょうだいが、ひとつの家に住んでいる。
 ほんとはまるでちがうきょうだいなのに、
 おまえが3人を見分けようとすると、
 それぞれたがいにうりふたつ。
 1番うえはいまいない、これからやっとあらわれる。
 2番目もいないが、こっちはもう家から出かけたあと。
 3番目のちびさんだけがここにいる。
 それというのも、3番目がここにいないと、
 あとのふたりは、なくなってしまうから。
 でもそのだいじな3番目がいられるのは、
 1番目が2番目のきょうだいに変身してくれるため。
 おまえが3番目をよくながめようとしても、
 そこに見えるのはいつもほかのきょうだいだけ!
 さあ、言ってごらん。
 3人はほんとはひとりかな?
 それともふたり?
 それとも――だれもいない?
 さあ、それぞれの名前をあてられるかな?
 それができれば、3人の偉大な支配者がわかったことになる。
 彼らはいっしょに、ひとつの国をおさめている――
 しかも彼らこそ、その国そのもの!
 その点では彼らはみなおなじ。」≫(第12章 P.203)

答えは、
3人の兄弟はそれぞれ上から未来、過去、現在。
そして3人は時間の国を治めている。時間の国とはこの世界そのもののこと。

なぞなぞを解いたモモは、時間を司り、人間ひとりひとりにその人の分として定められた時間を配る役割というマイスター・ホラの案内で時間の源へと案内される。まだの方はぜひ読んでほしい。そして精いっぱいイメージしてほしい。考えうる最高の境地へといざなってもらえる場面が展開される。

マイスター・ホラのもとに戻ったモモに告げる言葉。

≪「おまえの見たり聞いたりしてきたものはね。モモ、あれはぜんぶの人間の時間じゃないいんだよ。おまえだけのぶんの時間なのだ。どの人間にもそれぞれに、いまおまえが行ってきたような場所がある。だがそこに行けるのは、わたしに抱いてもらえる人だけだ。それにふつうの目では、あそこを見ることはできない。」
「でも、あたしの行ってきたところは、いったいなんなの?」
「おまえじしんの心の中だ。」≫(第12章 P.219)

日本古来の感覚を伝える古神道の訓え(目指す境地)に、「なにもかもかむながら、ますみのむすび、どうすることもいらぬ」というのがある。過去現在未来に対応する。「ますみのむすび」の体得は仏教でいう「悟り」に近いと思う。モモが体験した「時間のみなもと」とは、エンデにとっての「ますみのむすび」の体験を描写したものなのかもしれない。

≪「3番目のちびさんだけがここにいる。
それというのも、3番目がここにいないと、
あとのふたりは、なくなってしまうから。」≫

時間のみなもととしての「いま」、それだけが「ここにいる」。

放射能によって未来が曇らされているせいなのだろうか。「いま」の重みが増している。

 


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めい

一昨日、マドモアゼル愛さんが書いておられた次の文章からも同じような思いが感じ取れた。http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi?date=20120111

(転載はじめ)

■ 理想の嘘、現実の美しさ New! 2012年01月11日(WED)

理想は本当に美しいか。現実は本当に夢のないものなのか。むしろ本当は反対なのではないか。現実とは今、息をしていること。過去にも未来にも今の息遣いはない。

 今、息することだけが生きていることの証しだとすれば、今、息して生きていることがどんなにリアルであり、大切なものかがわかる。

 私は飼っていた犬が死んだ直後に家に戻ったことがある。危篤状態が続いていた犬の安否に不安を感じ、家に戻るとすぐに犬のそばに行くと死んでいた。すぐ今まで生きていたような感じがあった。あとで聞くと、私が帰る直前に一声鳴いたと聞き、そのときが最後だったと思った。死んだ犬を抱いて安置する場所に運んだ際に、青白い光が周囲に飛びかったが、それは魂が飛び交っていく光景に思えた。

たった前まで息をしていた犬が、今は息がない。息をするのは生きていること。当たり前だがそうなのだ。

 生き物が呼吸をするのは当たり前の話しだが、呼吸することがどんなに凄いことか、私たちは忘れがちだ。
 先のことなど、そんなに重要ではない。今、呼吸をしている自分が重要なのだ。 息することを忘れた生き方は、死んだ生き方。

 人は誰でも先のことはあまり悪くは考えたくない。なので、どうしても夢や希望が優先する。中には不安が優先する人もいるが、夢か不安か、両極端なになりやすい。そして面白いように、夢も不安も未来の自分を正しく表すことはなく、どちらも幻想に過ぎない。

 それに比べて呼吸している今の自分は間違いなく本当の自分である。自分が今、生きていることであり、自分との対面がそこにある。リアルの自分を感じることができるのは、今、呼吸している自分なのだ。

 その自分を大事にすることも、評価することもせずに、未来を不安がり、未来の夢に賭ける。そこに現代の悲劇の根本があると思う。そしてそれがうまく利用され、現代の文明やスタンダードな生き方が作られている。

 呼吸をしている自分を肯定さえできれば、私たちには宗教も哲学も必要とはならない。呼吸する自分と未来・理想・思惑などと対立させ、大切なのは、呼吸する自分ではなく、未来・理想・思惑などにあると思わせられてきた。

 そのため、何を信じているか、、、夢は何か、、、、というようなことは問題にされても、今、あなたは今の自分をどのように大切にして生きているか、、、、という設定はどこでもなされない。今、自分を自分と切り離さずに生きていこうとする人は、会社では使えない。宗教ではだませない。思想では手に負えない、、、、なので、人をリアルから切り離す、、、、そのためのノウハウを行使した人が、現代を作った。善悪の観念は非常に使いやすかった。どちらが悪い、、、という形にもっていけば、悪い者たちを殺そうが焼こうがどうにでもできる。戦争だって自由自在に起こせる。戦争すれば一番儲かるのだから、権力の集中、金力の集中には、一般の大勢の人々を、呼吸するあなたではなく、未来のあなたがいかに大事か、、、という幻想を抱かせるのが一番である。

 愛、理想、夢、正義、そして神、、、、これを悪魔が使った。それは私たちが今、呼吸している自分を見放したことがすべての原因である。

 どこかの頭の軽い大臣が、「ユーロは自分的に見て、もうすぐ終わるだろう。その際には、日本にも金融の大津波が襲ってくる」という御宣託。国の偉い大臣様がそういうのだから、そうなのだろう。ユーロが崩れれば、ドルも当然崩れる。円も同様。果たして、通貨の終焉する姿が近々に訪れるのだろうか。頭の軽い大臣さえそう言ったにもかかわらず、マスコミも一般人も、そんなことがあるわけがない、、、という意識である。

 イランの情勢もお互いにわざわざ緊張を高めていくようなプログラムどおりに動いているような印象があり、金融崩壊と戦火がセットで動き出していることは確かである。実際にそうした古すぎるやり方が、本当に通用するとは私は思わないが、それをたくらんでいる流れがあることだけは確かだろう。理想をえさに戦争を起こすより、どんな理想よりも、現実に生身の人間が血を流すほうがよくない、、、との感じ方が、早く拮抗していかねばならない。

 誰が悪い、、、どの国が悪い、、、そういいながら、戦争する国に加担していく日本。いつものことだが、先の大戦で本当にいやな思いをした一般日本人は、心底戦争を嫌がっている。日本人に限らず、世界中でそうした気持ちが高まっている。誰が悪い、、、どの国が悪い、、、といいつつ、本当はそんなことを言いながら、ただ戦争がしたいだけじゃないか、、、との自然な気持ちが一般人に芽生え始めている。

 理想の嘘よりも、今、呼吸して生きている人間が、たとえ、どの国の人でも美しい。右の人でも左の人でも、日本人でもアメリカ人でもアフリカの人でも、呼吸して生きているあなたがすばらしい。誰かを殺して達成去れる夢など、人類にはない。

(転載おわり)


by めい (2012-01-13 12:17) 

めい

自給自足経済圏についてのウェブボット予言。
大事な記事と思えたのでコピーしておきます。

黄金の金玉を知らないか?
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/
2013/5/29

* * * * *

未来のヨーロッパの風景


さて、昨日こんな記事を読みますた。

皆さんはウェブ・ボット"Web Bot"というのは聞いたことがあるでしょうか。

ウェブボットというのは元々は株式市場の動向を予測するために1990年代後半に開発されたプログラムのようです。
仕組みはネットを徘徊してニュース記事、ブログ、フォーラム(掲示板)とかチャットの内容を集めてくる。
その中にどういうキーワードが多く出てきているのか。
そのキーワードがどういう場面で使われてるのか。

例えば、戦争というキーワードが感情的に使われてたら、将来、戦争が起きる可能性があるとか。
そんな感じで、その時々でネット上で人々がどんなキーワードを多く使ってコミュニケーションしてるのか、そのキーワードが出現する時の感情のインパクト、強度、頻度などを数値化し総合して未来を予測するのです。

ちょっと前までは結構話題になったのですが、大して当たらなかったので最近は注目されなくなってますが。

そのウェブボット予言。
2018年ぐらいまでに自給自足の経済圏ができるという予言が面白かったので張ります。



自給自足経済圏

・既存のライフスタイルから脱し、このときには「Boglife(ボッグライフ)」といわれるようになる自給自足的なライフスタイルの構築にいち早く成功した人々は、成功者としてマスメディアで賞賛の対象になる。これは長い変容の時期が終わり、民衆が本格的な変化を起こす臨界点に達したことを告げる出来事となる。

・新しい政府は、大恐慌のときのニューディール政策を思い出させ、国民にやる気を起こさせるキャンペーンを開始する。これはいろんな理由からうまく行かないが、その予期しない効果として「ボッグスライフ(bogslife)」のような自給自足型のライフスタイルの思想を活性化させてしまう。かつてアメリカの経済的な植民地で、経済破綻の影響をもっとも受ける地域(もしかしたら日本?※ヤス)では、「ボッグスライフ(bogslife)」はアメリカ以上に受け入れられる。

・EU地域では新しいライフスタイルの構築を目標にした村の建設が進む。これはかねてからデータに存在している自立的な自給自足圏としての「ボッグスライフ(bogslife)」に相当する生き方だが、当初、村には封建的な支配が導入されてしまう。しかし、全世界的な革命運動が進むにつれ、こうした封建的な支配は攻撃の対象とされ崩壊する。

・これらの地域は、既存の資本主義システムからいち早く抜け出た自立可能な共同体の構築に成功したからである。こうした共同体は「ボグコム(bogcom)」と呼ばれるようになる。その成功が賞賛される5つの共同体は1000マイルという、国民国家の独立性を脅かすに十分な規模にまで成長する。国民国家はほとんど国民の信頼を失っており、こうした自給自足的共同体の興隆にはなすすべもない。人々は国民国家の幻想やかつての資本主義システムには見向きもしなくなる。

・広大なエリアをもつ自立的な自給自足経済圏(ボッグスコム)がEU圏内に5つ設立されるが、そのうちの2つは自立的な教育を目的にした大学のような高等教育機関を中心にして設立される。

・自立的自給自足的経済圏(ボックスコム)は、はっきりと姿を現すが、新しい電力(エネルギー源)の開発が進むため、2018年になると自給自足的経済圏にこうした新しいエネルギー源は積極的に取り入れられるようになる。

・暴力的な事件の頻発は、社会がもはや統合性を維持する力を喪失してしまったことを表している。最初、小規模な暴力事件が起こるが、次第にその規模は大きくなり、国民の気持ちを一つにするような大きな事件が起こるはずだ。それをきっかけにして資本主義システムの全面的な崩壊は起こり、自給自足的ライフスタイル(ボッグスライフ)への全面的な移行が始まるだろう。

※記事はブロ友さん ヤスの備忘録さんより



まぁ、ワタスは漠然とこんな未来が来ると思って疎開村活動をやってるのですが。

現在の資本主義など。
単純に言うと、時間泥棒主義。

資本主義=時間泥棒主義


資本主義などという主義は存在しない。
本当は、ロスチャイルド銀行、ラザール・フレール、イスラエル・モーゼス・シフ銀行、ウォーバーグ銀行、クーン・ローブ商会、ゴールドマン・サックス、チェース・マンハッタン等々という時間泥棒の経済だった。

なーんだ。
時間泥棒主義だったんだ。

ロスチャイルド主義と言ってもいいし、ウォーバーグ主義と言っても良い。
クーンローブ主義と言ってもいいし、ラザールフレール主義と呼んでも全然かまいません。

それが最近はもうネット住民の方にはバレバレになって来てしまった。
新聞やテレビを見てる層は未だに騙されてるようですが。

だから、このウェブボット予言で言われる世界は普通にやって来るだろうと思ってます。
元々、それが普通なのですから。
日本の場合は、これから災害か、もしくは数年後に原発事故の影響がでて100万人ぐらい死にだしてからこの動きが始まるのかもしれません。

自給自足を目指す方向は間違ってない。
そう思ったウェブボット予言ですた。

本当にありがとうございますた。
by めい (2013-06-01 05:39) 

めい

「幸福感」について語っておられますが、そのまま「ますみのむすび」の感覚です。またマドモアゼル・愛さんです。

   *   *   *   *   *

■ 幸福感 New! 2013年12月04日(WED)

みなさんは幸福感を抱いているでしょうか。まあ、一応自分は幸福だ、、、と思っている人は多いと思います。

幸福かそうでないかは、人と比べるものではありませんし、自分にしかわからないものでしょう。

本来、幸福には、幸福感がともなわければおかしいと思うのです。

しかし、多くの人は、まあ、自分は健康だし、経済的にも豊かとまではいかないがそれなりに暮らしていける、、学校も恥ずかしくない学校を出てるし、、、、というように考えがちです。

要するに一般論。幸福か不幸かがそうした一般論で決められるものでしょうか。あまり関係ないと思うのです。

普通に暮らせる幸福は確かに大きいと思いますが、だからと言って、幸福と言えるのでしょうか。

幸福感が伴わない幸福なんかあるのでしょうか。

朝起きたとき、生きていることを嬉しく感じる、、、

風が顔を吹き抜けていくとき、ああと喜びをいだく、、

道端の花が微笑んでいるように感じて嬉しくなる、、、

本当に幸福な人とは、そうした幸福感をもっていると思うのです。もちろん、急いでいるときに、ああ素晴らしい朝だ、、、なんて感動する人は少ないでしょうが、どこかしらにそうした幸福感を持つのと持たないのとでは、大きな違いがあると思うのです。

どんなにお金持ちになっても、どんなに周囲から称賛を浴びても、一時の昂揚感はあるでしょうが、持続する幸福感には結び付きません。

将来の夢がさも大事だと言わんばかりにマスコミはたきつけますが、本当にそんなに大事なのでしょうか。未来の夢の達成が目的になると、今が粗末に扱われます。

夢のために我慢するのが当たり前、、、となってしまう。それにだまされて一生を終えていってしまった人もいるような気がする。ひどいものだと思います。

幸福は現在の状況と未来の手応えと深く関係しますが、幸福感はどこにも、何にも関係しない、ただ幸福感を抱く、ただ幸せを感じる、、、という今の現象です。

将来の夢イコール、今は歯をくいしばってがまんし、、、、そうやって夢の東大に入った人も大勢いると思います。

それはそれで確かに意味はあるし、何より、社会が過大に評価してくれるので、得ではあるかもしれません。しかしそれを真に受けてしまうと、昂揚感はあっても幸福感はおいてきぼりにされてしまうことでしょう。

昂揚感は自分と他を分けて、抜きんでる喜びです。幸福感は必ず、対象と何等かの融合をした際にもたらされる満足感です。

なので、昂揚感はもっともっとの方向性を持ち、幸福感はその場その時のおける充足を意味します。

はたして、現代はどちらを大切としているでしょうか。
幸福感を忘れて突き進む現代人には、はたして幸福などやってくるのでしょうか。

人と、自然と、時間と、状況と、音と、色と、香りと、、交合することでもたらされる喜びと満足は、常に今という時間軸の中にあります。

現代人の何が不幸かというと、今というときを意味ないものにしてしまったことにあるのです。徳洲会の問題が騒がれていますが、徳田会長は偉い人であったといいます。確かに病院経営においては、本当に偉かった気がします。かなりの人格者の面もあったようです。

マスコミが言うことなど付け焼刃の意図があってのものなので、あたかも徳田氏が悪人のように言われますが、本当のことは私たちにはよくわかりません。

ただ気になるのは、ものすごく合理的な考えをする面があったらしく、信号で車が停まりそうになると、後ろから運転手さんの頭をお茶のカンで殴ったということもあったとか。それがもし本当なら、ああ、夢を追っていた人なんだな、、と。夢は未来に属しますから、今の意味を薄めてしまうのです。

意味あること以外意味ないという感覚に立ち至ります。金さえ儲ければ、、、出世さえできれば、、、あの学校にさえ入れれば、、、現代の問題の根本には、こうした考えがあり、意味あるもの、意味ある時間とそうでないものとに、人は分けてしまうのです。

得するもの、、、そうでないもの、、、儲かるもの、、そうでないもの、、、よいもの、、、わるいもの、、、

その代償は幸福感の喪失。

不幸とは今と離れた考え、立場、意思、防衛、から訪れるのです。先々の不安をカバーするために万全の備えをするのは、とても大事ですが、それは今という立脚に立っている場合のみ有効であって、いたずらに未来への不安から行動すると、大体はうまくいかず、墓穴を掘ることになりがちです。

若い時期からお金をためて堅実に過ごせば、確かに老後の心配は多少は少なくなるでしょう。しかし自分の人生がそういう防衛的態度によるものばかりになったとき、私達は、人生はやはり厳しい、、常に用心しなくては、という気持ちをむしろ高めています。

そして死ぬまで用心し通しで実際に死んじゃう人も多いわけです。一体何のために生まれてきたのか、、、そんなことはどうでもいいのです。とにかく不安になりたくない、、

準備をするほど、用心深くするほど、守りをするほど、、本当は不安になっているのに。

もちろん準備や用心は必要だと思います。しかし、それは有意義に楽しく生きるために必要なのであって、不安を安心させるために行うのとは本来は異なるのです。

有意義に楽しく生きるために、不測の事態に備える準備は、今の喜びを消すものではありません。しかもある程度の限界を知っています。

これを不安から始める人には限度がないのです。なので、富の集中が起こったり、武器の増産が起きたり、という心理を醸造してしまうのです。

不安から動く人には周囲は見えませんから、どうしても巻き添えを食います。国も同様で、国民は国家の巻き添えを食い始めているようにどの国もなっているようです。

国家は防衛のために莫大な武器に金を惜しみません。民の貧には関心がないかのようです。

守りに心を奪われたものほど怖いものはありません。

そして必ず、そうした行動からは幸福感は消えていきます。一見幸福に見える社会でも幸福に見える文化にも、幸福感はだんだんと消えていくのです。

いつの間にか、お茶の間ので見るテレビのお笑いの番組からすらも、笑うことはあっても幸福感は見えてきません。

幸福感はでは何によって得られるのでしょうか。ひとつは言ってきたように、今という場に立脚した交合です。

友と、人と、自然と、今、何かを共有した際に出てくる感情は幸福感です。

それには、方式があります。今とつながる唯一の方式はゆっくりすることなのです。

これによって副交感神経が働きます。副交感神経と幸福感には深い関係があります。しかしこれも働き過ぎると幸福感は消えていきます。バランスです。

人には夢があり、未来があります。先ほどはそれを否定しましたが、確かに大事な要素です。しかしそのために今を捨ててはいけないということなのです。

夢と未来に不安ではない健全な意識を向け、そしてそのためにも、今に立脚する。それが、ちゃんとした意識を持ちつつ、ゆっくり行うことなのです。

幸福感がもたらされれば、それはうまくすすんでいるよ、、との神のシグナルをもらえたことだと言えるでしょう。


音は今以外に存在しないリアリティ
生き続けている幸福感、528Hzとソルフェジオ周波数

by めい (2013-12-04 21:10) 

めい

■ 命はノンジュール New! 2013年12月11日(WED)
http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi

一年を現す漢字があるが、今年は何になったのかしら。私のこの一年を代表する言葉は何かな、、、と考えると、それはおそらく「ノンジュール」ではないかと思います。

ノンジュールとは、仕事量とは違うところに新たな命を生み出す根源の情報の自由存在点がある、、そんなイメージ。

札幌セミナーが10月にあり、とても印象深かったのですが、そこで土橋先生と話している最中にどちらからともなく出ていた言葉がノンジュール。

もともと私は、働かざる者食うべからず、、、という言葉が嫌いで、仕事って何なのか今でも疑っている面が大きいのです。ジュール=仕事量、で人生を語ろうとするあまりに貧しい感性にはついていけないものがあり、知らないうちに今の日本は共産主義以上のジュール社会になりつつある。

仕事をしなければ生きていけない、、、お金を稼がなくては生きられない、、、という凄い信仰がはびこっています。

ジュール信仰と言ってもよい。しかし、根源の創造は、これとまったく反対で、ノンジュールにある。

ノンジュールに近づくに従い、むしろ情報は増大していく。一日、同じ笑顔で客に接客し、マニュアル通りに働けば、ジュール的には自給を稼げます。

ベルトコンベアーの前に立ち、流れてくる品を右に左にはじいていれば、品物の点数は時間と共に正確に増えていきます。

それをジュール量と言えるのかもしれませんが、果たして、ジュールで人生をとらえることなどできるのでしょうか。仕事量でそれ以外のものが測定できるのでしょうか。

何万時間働いた人の人生のほうが、何千時間しか働らかなかった人よりも偉いのでしょうか。幸せなのでしょうか。関係ないと思うのです。

そして、この関係ないと思う、、、というところまでは、おそらくどなたもそうだとお思いになると思う。

さらにそれを推し進めて、むしろ反対なのではないか、、、となると、ちょっと待てよ、、、と考えてしまうと思います。

私はジュールを少なくして、ノンジュールを増やした方が実は素晴らしいことに出会うと思っています。

決して、働く必要はない、、、というわけではないのですが、今の公害をひどく生み出すような状況では本当はノンジュールの生き方の方が、時代に対して失礼がないとも言える。仕事しない方が地球に愛されるかもしれない。

どうしようもない体に悪いものを売るより、作るより、まだ売らない方が、作らない方がよいはず。

そうなると、仕事をしているから偉いとは、してないから偉くないとは、簡単には言えない気はする。

昔、働かないで、歌ばかり歌っている人がいた。村人はその歌を聞きながら畑仕事をし、山仕事に精を出した。

そして村はいつも幸福だった。その村に新しい考えを教える旅人がいた。働かざる者食うべからず、、と。

歌好きは追いやられ、そして村もその後滅んでしまった、、、そんな話。

赤ちゃんも仕事はしない、、、わらったり泣いたりしていると、まわりが幸福になっていく、、ただそれだけ。

ジュールとノンジュール、、、実は、ものごとや現象の二面性なのだ。作用はジュールで計測され、ジュールで計測されたものには永遠はなく、必ず、山を作り、いずれ消滅していく。

それは反作用が働くからだ。作用に反作用、、、ノンジュールは反作用と関係する。そしてすっかり元に戻ったように無に戻るあらゆる現象。

その無にこそすべてが眠っていて、すべてがうごめいていて、質量のない無限の情報が行き来する魔法の入り口がある。

新しく命あるものはすべてそこから飛び出してくる。それはジュールの世界のやり取りとは違う。ジュールは金太郎あめの量産にすぎないが、無にもどる乗り物とはなる。人生もすべてそうである。

すべては過ぎ去り、すべては終えていくが、それを概念の無と捉えることもでき、永遠と一体化する夢ともなる。

なぜ、夢なのかは、まだ知らぬ実体との出会いだからだ。何が訪れるかは、創造の流れの中であらかじめ理解することはできない。無から訪れるプレゼントをあらかじめ知ることなどできないから。

ノンジュールを測ろうとすればそれは計測上の無であり、受け入れれば永遠の情報となる。死がまさにそうなのかもしれない。

たった一回、チューナーを叩く、、、これは作用となる。

音が鳴り、、ジュールの世界が現出するも、音はじょじょに小さく消え入るようになっていく、、、

そして無音の到来。ジュールで捉えれば無、ゼロ。しかし無音を受け入れればプレゼントが。

命なきものは滅びる。このジュールの世界においても、本当はこの世界を支えてきた実態はノンジュールにあったのだ。時給の積み重ねで、、ボーナスをもらう人々の仕事の積み重ねでこの世が支えられていたと思うのは誤解なのだ。

ノンジュールしかもっていくことはできない。形あるものは必ず滅びる。限界を、困難を、行き詰まりを、救ってくれるのはノンジュール。ジュールはノンジュールがあるからすごく意味が出てくる。

ジュール信仰だけでやれるものならやってみればいい。私は一抜けて裏表を使って自由になりたい。

大体、人は反作用がもたらすプレゼントを受け取る存在なんです。そのために何か作用することをやりなさい、、、ということで、やることそのものに意味があるのとは違うのです。やったことは、すべて無になっちゃうのだけど、それが新たなプレゼントをもたらすのです。

その意味で、今度は逆転しますが、無になろうとも、作用を起こすことが生きる意味ともなるわけです。

人生って、すごいよね。



by めい (2013-12-12 05:45) 

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