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昭和40年代(1960年代末)大学紛争の時代を生きて [大学紛争]

いまから40年前、日本全国で大学紛争の嵐が吹き荒れた。当時大学生活を送った世代は「全共闘世代」とも言われる。菅総理や仙谷副長官もその中に括られる。

新ベンチャー革命の中にこうあった。

 (引用はじめ)

菅総理は、江田三郎氏や市川房枝氏など左翼政治家(ただし、反・日本共産党)を利用してのし上がった“成り上がり政治家”に過ぎないことが、日本の核武装派によって暴露されつつあります。
 
 そのような菅総理の出自から、かつて市民運動家を装った菅総理は、同世代の日本赤軍の北朝鮮亡命組との因縁が取り沙汰されています。これが表沙汰となれば、前原氏のケースより対・国民インパクトは大きいでしょう。
 
 菅総理は東工大を卒業後、企業に就職せず、左翼運動家として活動していたわけで、その当時、日本赤軍の連中と交流があった可能性は高いでしょう。
 
 ところで彼は筆者と同学年世代であり、筆者は山口県徳山高校出身、菅総理は山口県宇部高校出身(高校時代に都立小山台高校に編入)です。菅総理の父(江田三郎と同じ岡山県生まれ)は東工大卒業後、宇部興産グループ企業の宇部曹達(現セントラル硝子)に入社しているので、同じく東工大を卒業した菅総理が、大企業に就職せず、左翼政治運動にのめり込んだことに菅総理の父は猛反対したはずです。

昨今、四面楚歌状態で、内外から追い詰められた菅総理の一連の行動パターンから、彼は組織リーダーとしては最悪の人格のようで、精神年齢は70年代のままかもしれません。96年、運よく橋本内閣の厚生大臣になったとき、薬害エイズ問題を利用してパフォーマンスで名を挙げたのですが、ホンモノの政治家としての修練はできていなかったわけです。

(引用おわり)

あの時代を日本の戦後史に明確に位置付けた論を私はまだ知らない。ややもすると、とりわけあの時代「闘争」として体験した人たちにとっては、青春の思い出のように美化され郷愁の対象になってしまったりしているのではないだろうか。菅、仙谷といったいま権力の中枢にある方々にとってあの時代はどう自分の中で「総括」されて今に至っているのだろう。「精神年齢は70年代のままかもしれません。」の指摘が当を得ているように思えてならない。

そんな折、「2年留年釈明書」が古い記録の中に挟み込んであったのを見つけた。就職にあたって自主的に書いたのか、書かされたのか。以下転載しておきます。

 

 (転載はじめ)

2年間多く大学に在学したということは、私自身にとっては全く必然的なことであったにせよ、つまり、今こうしてある私であるためにはどうしても経てこなければならなかった過程であるにせよ、社会的には決してあたりまえのことではなく、社会に自分が踏み出すにあたって、その点に関しての自分なりの釈明が必要であると考え、現在の自分にとってのそのことに対する評価を混えつつ、2年間の留年に至る経過を記し、釈明に代えたいと思います。

 昭和43年から44年にかけ、全国の大学で起こった大学紛争は、当時3年生の私が在学するO大学においても激しく展開されました。O大学の場合は、44年1月の全学学生大会において、機動隊による学内での学生逮捕の問題を発端にスト決議がなされ、それ以後9月半ばまで講義が行われぬまま、9月末に至って、43年度の試験、レポート提出がなされ、その後に44年度の講義が行われるという極めて変則的な形で43、44年の課程が修了することになりました。私の場合、43年の課程を修了するための試験、レポート提出を行わず、またその直後提出すべき44年度の履修届をも提出しなかった為、43年度の講義を受講しながら、43年度の単位は、前期分を除いて全くなく(文科の場合、ほとんど前後期通しで講義が行われます)、また44年度取得単位は全くなしということになり、卒業のためには45、46年度の2年間の留年が必要ということになったわけです。 以上が事務的な経過ですが、つぎに、私がなぜそのような経過をたどることになったかについて、当時の自分をふりかえりつつ記してみます。

O大学においてスト決議がなされた昭和44年1月20日当時、すでに全国の多くの大学で紛争の火が燃えあがっており、その火の手がO大学にもいずれ押し寄せてくるであろうことは予想のできないことではありませんでした。しかし、当時の私は、1年の時からの寮生活の中で、いわゆる学生運動については卒業したつもりでおり、一連の紛争についても、倫理学を専攻する者としてのある程度の関心はもちつつも、一定の距離をもって眺めており、むしろ卒業を1年余り先に控えて、大学における生活云々というより、、将来の生活をも含めて自分自身の方に関心は向いていたといえます。したがって、ストの決議がなされたこともその翌日聞いて、その突然さに驚くような状態でした。そうしたうちにも学内は騒然さを加え、研究室や自治会での討論が活発に行われて、自分自身の態度決定が迫られることになりました。当時の自分としては、枝葉末節の事実経過はともかく、問題の本質は自分なりに捉えているつもりでおり、心情的には惹かれる面もあったにせよ、ストライキによっての解決の目途は全くないままの泥沼化は避けられないと考えておりました。したがって、このストライキに対しても、最後まで責任を持つことができない、という考えの下に、1月29日行われた単位自治会でのスト再決議を目指す文科学生大会では、保留の票を投じました。この投票においては、賛成133、反対44、保留26、無効1という圧倒的多数の賛成でストの確認がなされ、それ以後はバリケード封鎖等、紛争は急激に活発化の様相を呈してゆくことになります。

私が捉える限り、当時の問題の本質は「大学の自治」という大義名分の下でぬくぬくと育ってきた大学人が、生の現実社会を生の自分の眼で見ることができなくなってしまったことに対する告発であると考えておりました。つまり、口では現状の変革を叫びつつ、現実の何たるかもつかめず、いたずらに己れの発する言葉に酔いしれるような大学人に対する告発、また、大学という一般社会から隔離された特権社会への無自覚な安住に対する告発、というように、告発するその人自身への自らの問いかけも含めての問題提起としてあったように思われます。そうした面において、ややもすると現実を離れ先哲の言葉をありがたがることに汲々となりがちな倫理学という学問に対する不満、また寮生活において「自治」とか「自治会民主主義」といった言葉がいかに形骸化した形式的なものになりさがっているかを身にしみて感じていたこと、そして何よりも、自分自身が一切の形式的なものから自由であるべきであり、そう在ると考えていたこと等、私自身の実感が共感しうる多くの面をこの紛争は担っていたといえます。したがって、紛争に対立する立場もとり得ず、また紛争を「闘争」と捉えて紛争の内部に入り込むこともできない自分にとって直ちに問題になることは、大学が大学としての機能を果たしていない今、自分がなしうることは何かということでした。そして考えた末の結論が、大学を早々に辞めて就職してしまうことが私の唯一の進むべき道であるということでした。そのことはまた、大学は卒業証書をもらうためのところではない、学ぶべきことを学んだら大学にはもう用はない、という気持ちも手伝って、そのことが自分自身にとって最も誠実な道であると考えたのでした。

そのような考えに基づいて、4月に入ると大阪近郊の職業安定所を訪ね、ある小さな鉄工所への就職がほとんど決まりました。今考えると、その時、自分の大学内での思考と、それを現実社会の中で客観化しようとする際のギャップをいわば身体で感じ取らされたのだと思います。寮に帰って冷静に考えてみると、どうしても、どこかでまちがってしまたのではないだろうかという、恐ろしいとも言っていいような感覚にさいなまれ、結局断わりの手紙を書く結果になったのでした。しかしそのことで直ちに、いったん否定してしまった大学における自分の場に戻ることもできぬまま、一度崩れた態勢の観念のうちでの立て直しを企てることが当面の自分の課題として意識せられており、現実への働きかけは何もできずに悶々としてアルバイトや読書に日を送っておりました。

 ストの長期化に伴っての学内の宙ぶらりんな雰囲気の中に、私自身も緊張感を失って甘えるようになっていたのかもしれません。学内の情勢は、積極的に闘争を担っていた学生も見通しのなさから多くが脱落し、またO大が潰されるという危機感にも圧されて授業開始を望む気持ちが徐々に形成されつつある中で、ついに9月半ば、学生によるスト決議を無視した形での大学側からの授業開始通告が出されたのでした。しかし、当時の自分にとってはあくまで現実への働きかけによって、一度崩れた態勢の立て直しがなされるはずであり、半年間考えてきたことを全く反古にして何もなかったように大学に戻る考えには到底なれず、レポート提出の期限も履修届の期限も無視して、アルバイトに一層身を容れては、金を貯めて、とにかくひとりでこれからの具体的なことを考えようと旅に出たりしていたのでした。そうして次第に冷静になって自分自身を振り返るにつけ、今まで無視できうると考えていた諸々のことが無視できぬこととして浮かび上がり、それと共に、自分がいかに観念の中で動き回っていたかということが考えられるのでした。現実というものが、いいと思っていたことも、悪いと思っていたこともひっくるめて、自分にとっていかに重たいものであるか、そして、生きてゆくということが、そうしたあるがままの現実をじかに己れの身に引き受けてゆく他はないのだ、ということだったと思います。おそらくそれ以前には言葉でわかっていたに過ぎなかったことを身体で、自分の生そのものとしてわかることができるようになったのだと思います。

45年2月の日記に、ある小説からの次のような抜書きがあります。
“おれはもう「自分」にばかり関心をもっては生きられない。それがひとつも確実なものではなく、確実なものは関係とか日常というものの中にあって、もはや自分の「不安」へだけの固執が正しいとも信じられなくなってしまったからだ。お子様の季節は終わったのだ。”

こうして、自分に今与えられている道を着実に、あたりまえのなんでもないと思われるようなことをひとつひとつ大切にしながら一歩一歩進んでいくことが、結局自分自身を最大限生かすことになるのだと考えて、以前には思いもよらなかったような以後2年間の大学生活を送る決心をしたのでした。幸い、最初の4年間は奨学金とアルバイトで何とか生活して、家の方へそれほど負担をかけていないこともあって、以後2年間の学資の面倒を見てもらうことに父の承諾も得、現在に至っております。

以上が、私が2年間留年することになった一通りの経過ですが、言葉が生そのものにとっては二次的なものでしかあり得ぬ以上、到底そのすべてを語り尽くすことができるものではないし、また以上述べたのとは別の述べ方もありうるようにも思いますが、いま自分が語りえたことは以上の通りです。それに対してのいろんな社会的な理由づけもできるかもしれませんが、少なくとも、今ある自分にとっては、それらが全て自分なりの必然性をたどってきた結果であり、自分にとって必然的なことであったということです。そして、ある思想家の言葉「個性に出会う道は困難である。青年は決して個性的であることはできない。空想は捨てねばならぬ。だがこれは難しいことだ。個性に出会う道と空想を脱する道とは決して別ではない。むしろ同じことを別な表現でしてみるにすぎない。」という言葉を.身をもって理解できるように思います。(中略)人より2年も多い大学生活で得た、あるがままの現実を謙虚にひきうけ、そこに立って自己の生を生きてゆこうとする態度をもって、(略)実践の中に飛び込む覚悟でおります。

(転載おわり)


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めい

「教えて!goo」で見つけました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1059067.html

(転載はじめ)

大学紛争はなぜ起きたのでしょう?

質問者:tetuharu 投稿日時:2004/10/27 21:05
東大生をはじめとする学生運動でデモなどを行った大学紛争はなぜおきたのでしょう?
当時の政治が問題なのでしょうか?
教育ですか?
それとも・・・・
学生たちは何にストレスを感じていたために起こったのでしょうか?

質問番号:10590

回答

No.3ベストアンサー10pt
回答者:chicago911 回答日時:2004/10/28 03:55
言われている時代が何時なのかわかりませんが、60 年安保闘争から、ほぼ 70 年頃終焉した一連の流れのことでしょうか。何故、この質問が出てきたのか、その背景がわかれば、回答の方向も変わって来るかもしれませんが、漠然とした回答であれば。

当時の時代背景はいろいろありました。これを一言で語ることはできません。ただ一言自分の総括として言えることは、「素朴な疑問」 が発端です。世間一般で当たり前のようにされていることが、果たして当たり前にことなのか、と素朴に考えたとき、そこに答えがなく、その答えを求めて行くうちに社会の不合理に気づき、それに抵抗した、と言うことです。無論当時かかわった者全員がそうであったかどうかはわかりませんが、多くの者の発端はここにあります。発端から最終結果に至る過程にも、時代背景、周囲の反応等、様々な要因が、個別に働いていたことも確かです。

貴方自身に問うのですが、日常を安易に受け入れていませんか。当たり前とされていることに疑問を呈したとき、それに回答がなされなかった、あるいは議論の対象とされなかった、ことが、ストレス (この言葉の正しい使用法としては間違っていますが) になった、と言うことです。

No.5ベストアンサー20pt
回答者:No51 回答日時:2004/10/31 19:19
私も貴方と同じ疑問を持って、調べた事があります。
(私自身は学生紛争を知りません)

すると、No.3の方が指摘されている通り、
「日常性に流される危険」という「思想」
に辿りつきました。

その「思想」の発端をさらに遡ると、日本では無く、
「フランスの哲学者のサルトル」
にまで達しました。

さらに調べると、
「自虐的な視点で自国の歴史を見るのが文化人」
とか、
「原爆を日本に落としたのは人種差別」
とか、
そういう思想(発想?)もすべてフランス左翼が
発端でした。

現在でも、「海外のブランド品」を欲しがる
日本人が大勢いるように、
当時は「思想」を海外に求めていたようです。

「ようするに滑稽な外国の猿真似」と
「それに便乗した野次馬的連中の騒動」

以上が私の結論です。

(転載おわり)
by めい (2011-07-20 14:31) 

めい

小熊英二著『1968若者たちの叛乱とその背景を読む』(上・下)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4788511630/minervasexper-22/
http://www.amazon.co.jp/1968%E3%80%88%E4%B8%8B%E3%80%89%E5%8F%9B%E4%B9%B1%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%84%89%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E9%81%BA%E7%94%A3-%E5%B0%8F%E7%86%8A-%E8%8B%B1%E4%BA%8C/dp/4788511649/ref=pd_bxgy_b_img_b
があることを知った。よく的を得たと思われるいい評があったので転載さえていただきます。http://d.hatena.ne.jp/gabbard/20090718/p1

(転載はじめ)

Gabbardの演習林-心理療法・精神医療の雑記帳

小熊英二著『1968(上)若者たちの叛乱とその背景』を読む』

 名著『〈民主〉と〈愛国〉』の小熊英二さんの新刊ということで、知るなり購入した。上巻1092頁、下巻1008頁の巨大な著作である。ただ、まだ上巻だけしか出版されておらず、下巻は7月末に刊行予定となっている。出版は新曜社から。

 個人的には、村上春樹の『1Q84』と並んで、現時点での今年のベスト1だ。

 60年代後半に大きな盛り上がりを見せた学園紛争。ブントの形成から、60年安保、ニューレフトのセクト間抗争、そして全共闘という大きなうねりになっていく様を、膨大な資料を駆使してたどり、全体像をつかもうとした意欲作である。

 過去にも紛争を語った資料はおびただしくあった。しかし、僕が過去に読んだものの多くは、概ね懐古的なものであったり、醒めた目で見下すものであったり、いずれも紛争に対して十分な感情的距離がとれていないものが多かったように思う。

 しかし今回の小熊の著作は、当時の左翼的な観念的言葉の羅列の背後で動いていた、若者たちの激しい情動のうねりをも客体化して示すことに成功している。その点で、はじめて紛争を「歴史」としてとらえた著作だといえ、今後、現代史研究の古典となっていく一冊だと感じた。

 この本の最大の美点は、若者たちのメンタリティ、とくに情動的な問題を基礎に据えて、「若者たちの叛乱」の全体像をつかもうとしている点である。

 筆者は「あの時代」の叛乱を、一過性の風俗現象とはみなしていない。だが、一部の論者が主張するような「世界革命」だったとみなしていない。結論からいえば、高度成長を経て日本が先進国化しつつあったとき、現在の若者の問題とされている不登校、自傷行為、摂食障害、空虚感、閉塞感といった「現代的」な「生きづらさ」のいわば端緒が出現し、若者たちがその匂いをかぎとり反応した現象であったと考えている。(p14)

 この認識枠は、紛争の展開を心理的な問題に回収されることが受け入れられない人たちにとっては、激しい批判の対象となることが予想される。でも精神科医という僕の立場からすれば、この小熊の問題意識ゆえに、この本が大きな示唆を与えてくれる一冊になった。

 いま僕が精神科医として働く中で出会う思春期の精神病理。自己不全感や劣等感、過剰な万能感、アイデンティティの確立の問題、母なるものとの別れとそれに伴う孤独感、空虚感・・・。そうした心理的困難が外在化されて処理されていたのが、この時代であった。たとえば自己不全感を大学当局や資本主義に対して投影し、その未熟さを攻撃して処理しようとする若者、あるいはコミューンを形成する中で一体感を体験し、孤独をいやそうとする若者。いずれも懸命に、自分の内部の問題を克服しようとして、選択した行為であった。つまり彼等にとっては、イニシエーションとしての意味を有した行動であったのだ。

 しかし、そうした処理の仕方は、紛争終結とともに困難になっていった。個人化され、内面化され、あるいは身体化されて、最終的に精神科治療の対象となっていく。

当時の若者は、自分たちが直面している不満や閉塞感が何であるのか、言語化できないことに悩んでいた。そのためマルクス主義用語に依存したり、「疎外」や「主体性」といった言葉で語ったり、政治状況と結びつけることが少なくなかった。(p17)

 小熊は、マルクス主義用語や「疎外」や「主体性」という言葉を用いて討論することが、知的防衛であったことを把握している。そして、そうした観念化された思考よりも、この防衛の基部で作動しているメンタリティこそが重要であることも把握している。だから小熊は、多くの一次資料を用いてはいるが、それらの観念的な思考はほとんど切り捨て、その背後からふと漏れ出している若者たちの心情に着目して、ていねいに拾い上げていく。

 たとえば紛争の中の若者たちは、原始的な情動に駆動され、否認や分裂、理想化といった原始的防衛機制に頼らざるをえなくなっていた。それはある時には、紛争の歴史をいろどる英雄たちの神話化という形で表れた。当初から過剰に美化されて扱われた樺美智子の死、逆に当初は冷淡に扱われながら後に神格化された羽田闘争における山崎博昭の死、また日大闘争での秋田明大や、東大全共闘の山本義隆・・・。こうした英雄たちの神話化の過程を丹念に描くとともに、実在のその人を描いた資料をたどることを通じて脱神話化することに意を用いる。

 もちろん人物だけではなく、闘争そのものに対しても小熊は同様の努力をおこなっている。たとえば三里塚闘争は、失われていく農村へのノスタルジーが反映していた運動であることを指摘し、機動隊を向こうにしてゲバ棒をふるう暴力の発露は、自己の実存を確かめる行為であったことを指摘する。

機動隊を殴りあうことで「生」のリアリティや「自分の存在証明」が得られること、口先だけの共産党や「大人たち」とちがい言行一致の決意を示せること、そうであるがゆえにゲバ棒とヘルメットというスタイルが人気を得たということである。(p494)

 僕が出会う現代の患者さんの病理は、この時代とそう変わってはいない。ゲバ棒をカッターナイフに持ち替え自分を切りつけることによって「実存」を確かめようとする人、コミューンの一体感が得られなくなった中で、つかのまの慰撫を求めてゆきずりの性的体験を求める人。

 そしてそうした若者にむきあう教授や総長といった大人達の姿に、治療者の僕が共有している弱さが重なる。大衆団交の中で狼狽する総長、自己保身に向かう教官、自己の専門性の中に閉じこもって対話を拒否する科学者、そして自分の意見の筋を通して、揺らぐことなく学生たちに立ち向かう教授。それぞれの大人に対して若者たちが示す軽蔑や敬意が、治療者である僕がとるべき姿勢を示唆してくれる。

 こうした人間心理を踏まえた理解をひとつひとつ煉瓦のようにつみあげて造られた、この堅牢な構築物の上に立つことによって、読者はパノラマ的に展開していく若者たちの不安定さと破壊性、そして人間の弱さを目の当たりにすることになる。人間的ふれあいを求めながら観念的な知的防衛に頼らざるを得ず、そして連帯を夢想しながら自らの破壊性によって崩れ去っていく未熟な若さ。その痛ましさに出会うとき、同じように脆く危うかった若き日の自分の姿がそこに見えてくる。

 そうした若さの危険性や暴力性に動じることなく立ち向かうだけの靱さが、治療者としての僕にあるのだろうか? そのように、自己を反省的に見つめさせる力がこの本にはある。

 本当に示唆にとむ一冊である。いまから下巻が待ち遠しい。

(転載おわり)


by めい (2011-08-29 06:19) 

大坪明子

『「自虐的な視点で自国の歴史を見るのが文化人」という思想はフランス左翼が発端』

そういうことでしたか!サルトルを読んでみなくちゃいけませんね。私は「自虐史観は日本発」だと思っていました。

『 小熊は、マルクス主義用語や「疎外」や「主体性」という言葉を用いて討論することが、知的防衛であったことを把握している。』

このことは、三島と学生達との対話を読んでいると強く感じますね。

初めまして。大変、興味深い内容でした。
「あれは、いったい何だったんだろう?」と私も長年、このテーマについては疑問に思ってきました。(私の学生時代は70年代後半でした。)

内容の濃いテーマを取り上げて下さって、ありがとうございます。
by 大坪明子 (2011-08-30 22:41) 

めい

大坪明子様

コメントありがとうございます。コメントいただいてから3年も経って気づいたところです。ふるさとに戻って40年近くになりますが、あの時代、いわば戦中派としての体験は、私にとってものごとを考える原点を形づくってくれたと思います。http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-03-07

いま、新ベンチャー革命の古い記事を読みました。
《極論すれば、60年代末、東大内で起きた民青と全共闘の闘争(いわゆる東大紛争)も、ロス茶とRFの代理戦争ミニチュア版だったのです。》
当時東大全共闘内部にいた筆者がたどりついた結論です。

   *   *   *   *   *

新ベンチャー革命2010年9月18日 No.196

タイトル:菅・仙谷新政権:親米全共闘内閣出現のなぜ?
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/18673155.html

1.菅新政権の実権者は仙谷官房長官か

 2010年9月14日、不正選挙のにおいがプンプンの民主党代表選(注1)を経て、17日、第二次菅内閣が発足、小沢派閣僚が、ほぼ排除され、マスコミは脱小沢内閣と絶賛しています。

現在の日本では、残念ながら大手マスコミに影響される国民が大半で、小沢氏の真価が理解できる国民は、一部の政治ブロガーや政治に関心の高いネット愛好者に限られます。大手マスコミによる、やらせ世論調査の小沢支持17%という数字がそれを物語っています(いくらねつ造でも、この数字は65%にはならない)。

 さて、菅新政権の主役、それは菅総理と、仙谷官房長官のコンビですが、二人とも、左翼政治家出身者です。筆者がにらんだところによれば、実質的権力者は、民主党内のアンチ小沢の筆頭格・仙谷氏の方ではないかという気がします。

 その仙谷由人氏は筆者より1歳年長で、東大文1現役合格ですから、東大では筆者(1浪)より2学年上です。東大時代は法学部の全共闘所属(法学部はアンチ全共闘主流でしたが)だったようです。筆者は工学部全共闘シンパで、工学部長室を占拠していました。

 東大全共闘出身者が日本の最高権力を握ったということで、非常に奇異な印象を持ちました。

 菅・仙谷政権は、周知のように左翼政治家(社会党系)出身なのに、あろうことか、第二の小泉・竹中政権まがいの親・米国戦争屋政権に豹変し、仙谷氏は、ナナナンと、悪徳ペンタゴン政治家の筆頭格に躍り出ました。

 なお、米国戦争屋および悪徳ペンタゴンに関して知らない方は、本ブログNo.188の注記をご覧ください。

2.東大全共闘を闇支援していたのは誰か

 上記のような、左翼政治家が親米政治家に豹変という、とんでもない政治的ねじれ現象に、菅・仙谷両氏の政治家歴を知る国民には、なぜ、こんなことになっているのか、さっぱりわからないかもしれません。そのため、ネットでは、両氏は単なる権力亡者だと切って捨てる人が多いようです。

 そこで、この奇異な政治現象を理解するには、今一度、東大全共闘運動とは何だったのかを振り返る必要があります。

 60年代末、佐藤栄作政権時代、日本の若者は、極めて反米的(厳密にはアンチ・米国戦争屋=アンチ・米帝国主義者)でした。東大全共闘はその最たるものでしょう。筆者を含む東大全共闘世代は、民主党の江田五月氏に代表される全学連安保反対世代を引き継いでいましたから・・・。

 ところが、現実に、東大内での全共闘の敵は、民青(日本共産党系、いわゆる日共)だったのです。筆者も安田講堂に立てこもって、攻撃して来る民青と闘った経験があります。要するに、東大に入り込んだ日共勢力と内ゲバを演じて、日共勢力を潰すことを狙った勢力(アンチ日共)から全共闘(非左翼の医学部の青医連を母体にしていたものの、すぐに反日共系左翼組織に乗っ取られた)に闇資金が流れていたと考えられます。その結果、全共闘運動が盛り上がりましたが、69年、安田講堂攻防決戦で官憲に敗北し、その後、学生の左翼活動は沈静化、アンチ日共の闇勢力の思惑通りとなっています。筆者を含む東大全共闘学生は、彼らに踊らされていたわけです。

 上記、仙谷氏は、当時、筆者同様に踊らされていたのか、全共闘への闇資金に関与していたのかは定かではありません。

ここで、筆者の仮説ですが、東大全共闘を含むアンチ日共系左翼に闇資金を直接流していたのはソ連ネオコン(トロツキスト)だったのではないでしょうか。それでは貧乏だったはずのソ連ネオコンに資金提供していたのは誰でしょう、それこそ、まさに、米国戦争屋ボス・デビッドRF財閥だったのです。

ちなみに、米ブッシュ政権に入り込んで、9.11事件を起こしたと思われる米国ネオコンとソ連ネオコンは同じ穴のムジナです。

 60年代、ソ連から日本に流された工作資金は、日共系とアンチ日共系と二つのチャネルがあったのではないでしょうか。要するに、ソ連内の権力闘争が、そのまま、日本の学生運動に反映されていたと思います。

3.米国戦争屋は、ソ連ネオコンへの闇資金提供者だった

 1991年にソ連は崩壊していますが、筆者の認識では、欧州ロスチャイルド財閥の闇資金を受けていた旧ソ連権力者が、60年代から、米国RF財閥からの闇資金を受けていた新興勢力との権力闘争の結果、内ゲバ崩壊したとみています。その新興勢力に加担していたのが戦争屋ボス・デビッドRFだったと思われます。その根拠は、RF回顧録(注2)に潜んでいます。60年代、デビッドは当時のニキータ・フルシチョフ首相を援助していたと同著で自慢しています。ちなみに1917年のロシア革命に加わったネオコンの元祖・レフ・トロツキーを支援したのがRF財閥でした。ブッシュ戦争屋政権にネオコンが入ったのも首肯できます。戦後ソ連の共産党内覇権闘争は、ロス茶とRFの代理戦争だったと思われます。

 極論すれば、60年代末、東大内で起きた民青と全共闘の闘争(いわゆる東大紛争)も、ロス茶とRFの代理戦争ミニチュア版だったのです。

4.悪徳ペンタゴン日本人の頭目・ナベツネも共産主義者だった

 戦争直後、1946年に日本共産党に入党した人物、それこそ、誰あろう、悪徳ペンタゴン日本人の頭目・渡邊恒雄(ナベツネ)その人です。

 その人物が、戦後日本の統治に派遣された米戦争屋ジャパンハンドラー(CIA含む)から戦争屋の日本人エージェントに指名されています、なぜか、日本共産党における旧ソ連系の安保反対勢力(アンチ戦争屋勢力)を内部崩壊させるウラ・ミッション(トロイアの木馬ミッション)を帯びていたと思われます。蛇足ですが、今の日本民主党にもトロイアの木馬ミッションを帯びた人物が多数いて、今回、ついに彼らに乗っ取られましたが・・・。

ナベツネは84歳の今なお、悪徳ペンタゴン日本人(大手マスコミ人含む)を牛耳って、アンチ戦争屋の小沢氏にエラソーに説教垂れています(注1)。

 共産党員出身のナベツネがなぜ、反共米国のエージェントなのか、多くの国民は、キツネにつままれた気分でしょう。

 そう感じる人、あなたはすでに米戦争屋に洗脳されています。共産主義者=アカ=米国の敵とインプットされているはずです。ネットウヨはその最たるものです。

 ネットウヨは、米戦争屋における“お敵さま”思想が理解できていないのです。米戦争屋にとって、ソ連共産党、中国共産党、北朝鮮共産党は、すべて“お敵さま”(=戦争ビジネスに必須の大事なお客様)と位置付けられています。戦争屋は、まず、敵を発掘し、その敵を大事に育ててから食べるのです。戦争屋にとって、日本も一種のお敵さまです。

 デビッドRFがなぜ、ソ連共産党内の新興勢力を支援していたか、なぜ、ソ連や中国のスパイを米国で泳がして、米国の航空宇宙技術、ミサイル技術を盗ませたか、わかってくださいよ、ネットウヨさん。そうすれば、戦争屋に踊らされることもなくなりますよ。

5.仙谷官房長官は、ナベツネ並みの筋金入りの悪徳ペンタゴンになるか

 上記の背景説明から、仙谷氏とナベツネ氏は、隠れ共産主義者といわれる(?)デビッドRF(戦争屋ボス)と相通じるものがあるとわかります。

 仙谷官房長官は、東大在学中に司法試験に受かった秀才です。かなりアタマの良い可能性が高いと思います。悪知恵も発達しているはずです。

 今回、小沢氏に代表選出馬を決断させた動機のひとつに、仙谷氏の処遇を巡って、菅氏と対立したことが挙げられています。菅氏が、仙谷氏を更迭すれば、小沢出馬シナリオは作動しなかったはずです。ウラに米戦争屋の意向が潜んでいると容易に想像できます。

 アンチ戦争屋・小沢氏が今後、仙谷氏とどのような関係を築くか、要注目です。

注1:本ブログNo.195『党員・サポーター投票という大ザル選挙で決まった菅総理続投』2010年9月17日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/18648381.html

注2:RF回顧録、新潮社、2007年

ベンチャー革命投稿の過去ログ
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1386/melma.htm
テックベンチャー投稿の過去ログ
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/8285/column-top.html

by めい (2014-10-11 05:39) 

めい

《自公が圧勝する理由は都会の若者の支持と高齢世代の選挙離れにあるのではないかとフーテンは思っている。だから健さんや文太に憧れた世代が投票所に行けば次の選挙は結果が大きく変わる可能性がある。》
この期待にわれわれはどう応えるか!?

   *   *   *   *   *

日本の近代化を問い続けた小津安二郎と原節子ー(田中良紹氏)
http://www.asyura2.com/15/senkyo197/msg/682.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 12 月 07 日 18:50:06: igsppGRN/E9PQ
     
日本の近代化を問い続けた小津安二郎と原節子ー(田中良紹氏)
http://www.twitlonger.com/show/n_1so08f0
6th Dec 2015 市村 悦延 · @hellotomhanks

週の初めの風邪が忘年会続きで一向に良くならない。
そのため原節子の事を書きたいと思いながら集中力が高まらずにいた。
でも書くしかないだろう。
フーテンにとって昨年の高倉健、菅原文太と同様に原節子の訃報は胸にズシンときた。
演じた世界と役柄を現下の政治状況と重ね合わせてしまうからだ。 
勿論、高倉健や菅原文太と原節子とはまるで異なる役者の世界を生きた。
高倉健と菅原文太は、明治から大正、昭和、そして戦後の焼け跡から高度成長期にかけて、国家権力の近代化政策が地縁、血縁の共同体を破壊するのに抵抗したヤクザを演じたが、原節子は日本の戦争と敗戦を生きた女性、そして日本の美しさを演じたように思う。
特に小津安二郎監督とコンビを組んだ一連の映画での品格ある美しさは忘れることが出来ない。
原節子は1935年に15歳で映画界にデビューした。
大きな目と高い鼻という日本人離れした容貌はドイツ人監督の目に留まり、すぐ日独合作映画のヒロイン役に抜擢される。
日独防共協定と時を同じくして映画は公開され、原節子はナチス・ドイツに大歓迎された。
これでスターになった原節子は日本の戦争が拡大すると「上海陸戦隊」、
「ハワイ・マレー沖海戦」、「望楼の決死隊」など数々の戦意高揚映画に出演する。
それが敗戦によって日本は連合国に占領された。
日本映画は戦時中内務省によって検閲されたが、今度は占領軍がすべての映画を検閲する事になる。
そのため「軍国主義」「国家主義」「封建主義」と思われる映画は上映が禁じられた。
検閲を行う部署の中で日本の映画人に最も嫌われたのがデヴィッド・コンデという男である。
コンデは軍閥や財閥を批判し労働組合を称賛する映画を奨励し、
キスシーンを挿入する事を「民主化」だと言って強要した。
そのコンデの指導で作られたのが黒沢明の『わが青春に悔いなし』や木下恵介の『大曾根家の朝』、今井正の『民衆の敵』である。
いずれも名作と言われるがしかし本質は民主主義を扇動するプロパガンダ映画である。
原節子もこの時代にはプロパガンダ映画に出演させられた。
コンデは映画だけでなく労働組合も作った。
彼が作った東宝労働組合は後に米軍まで出動する大争議を引き起こすが、
作ったのが米国なら鎮圧したのも米軍という話である。
やがてコンデは天皇の戦争責任を問う映画『日本の悲劇』を作ろうとして占領軍内部から解職された。
日本政府を天皇中心の傀儡政権にすることは戦時中からの米国の方針だが、それをコンデが無視したのである。
コンデが外されても米国の日本洗脳政策はその後も変わらない。
「貿易は映画に続く」というのが米国の考えで、映画によって米国製品への憧れを創り、米国の生活様式を普及させれば米国製品が売れる。
そのため日本への米国映画の輸入割り当てを大きくし、その他の外国映画は少なくなるよう制限した。
また「民主主義を広める」との理由で映画館や劇場を接収し、音楽や演劇の市場を米国が占有できるようにした。
その結果、キリスト教徒でもないのに日本人が教会で結婚式を挙げ、映画で見たクリスマスを日本の家庭が祝うようになる。
原節子はコンデが強制したキスシーンを拒み、また東宝の労働組合運動からも脱退するが、その頃出会ったのが小津安二郎監督だった。
初めてコンビを組んだ『晩春』は古都鎌倉を舞台に、戦争のために婚期を逃した娘を原節子が演じる。
父親は結婚させようとするが、娘は母親を亡くして一人になった父親の面倒を見ると言ってきかない。
父親は再婚するフリをして娘を嫁がせるのだが、この映画に戦争直後の荒廃した日本の姿はつゆほども出て来ない。
茶の湯、能楽など日本の伝統美の中に美しい日本人の姿がある。
同時期に上映された黒沢明の『酔いどれ天使』は焼け跡の汚れた町を舞台にして全く対照的である。そして原節子は黒沢の『わが青春に悔いなし』の時よりフーテンには魅力的に見えた。
その後、小津と原の二人は『麦秋』、『東京物語』、『東京暮色』を相次いで撮るが、これらにはいずれも戦争の傷をうかがわせる設定がある。
『麦秋』で原節子が結婚を決意する相手は戦死した兄の親友で、戦死した兄が意味を持つ。また『東京物語』で原節子は戦争未亡人である。
さらに『東京暮色』では原節子の母を演ずる山田五十鈴が、夫が朝鮮に赴任している間に愛人を作り、満州に駆け落ちする設定である。
小津安二郎は日中戦争が始まると同時に召集され約2年間中国各地を転戦した。
本物の戦争を経験した小津は、しかし戦争映画を1本も作らなかった。
軍服を着た兵隊が画面に登場した事もない。
しかし小津の映画にはどこかに戦争の傷が映っている。
『東京暮色』の設定は、日本の近代化政策が植民地を作り、傀儡国家を作り、戦争に突入した事実を下敷きにしている。
そしてそれが家族をバラバラにしたのである。
つまり小津はこの映画で、明治からの日本の近代化は国民を幸せにしたのかと問うているのである。
小津安二郎は60歳の誕生日に亡くなった。
原節子は葬儀で号泣したと言う。その2年後に彼女は引退し、誰の前からも姿を消して「伝説」となった。小津監督の死に殉じたとの見方もある。
原節子は小津作品に自分のすべてを出し尽くしたとフーテンは思う。
数々の「戦意高揚映画」に出演し、次にそれとは逆の「民主プロパガンダ映画」にも出演した原節子は、ようやく小津監督と出会い、共に日本の近代化と戦争と家族を問い続ける映画を撮った。
その小津監督がいなくなれば共に問いかける事も出来ない。
それが引退の真意だったのではなかろうか。
日本の戦争を巡って国民世論が高揚した今年9月、
原節子は日本の近代化と戦争と家族を問い続けた小津安二郎の元に旅立った。
そしてフーテンはやはり近代化に抵抗する役を演じた二人を思い出す。
高倉健と菅原文太が演じたヤクザの抵抗の仕方は、勝ち目がなければやみくもには闘わない。
じっと耐えて怒りを内側に膨らませ、それを意地に転化する。そして意地を張るのである。
死んでも意地を貫く。これに全共闘世代の学生たちは熱狂した。
その世代は今では高齢者である。しかし彼らは政治に関心がある。
その投票動向が選挙の帰趨を決めるという説もある。
ところが民主党への政権交代が起きた09年の選挙で7割近くにまで上昇した投票率は、自民党に政権が戻った12年の選挙で6割弱、さらに14年の選挙では5割ちょっとまで激減した。
しかも地方の選挙区の投票率が都会よりも低い。
自公が圧勝する理由は都会の若者の支持と高齢世代の選挙離れにあるのではないかとフーテンは思っている。だから健さんや文太に憧れた世代が投票所に行けば次の選挙は結果が大きく変わる可能性がある。

原節子の訃報を聞いた時、フーテンはそんなことを考えた。

by めい (2015-12-08 06:48) 

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