SSブログ

和光神社が結ぶ歴史的奇遇 [直江兼続]

米沢御堀端史蹟保存会が発行する年刊誌「懐風」に寄せた文章です。

   *   *   *   *   *

和光神社記念写真mini.jpg

 和光神社が結ぶ歴史的奇遇
    ―― 兼続の母の実家、尾崎家との関わりの中で

〇はじめに

   現実感覚では不思議としか言いようがない偶然の出会いというものがあります。フロイトの精神分析を継承発展させたユングはそれをシンクロニシティ(共時性)と名づけ、原因があって結果がある現世的因果律とは別レベルのこととして説明しようとしました。ユングはシンクロニシティが起こる根底に集合的無意識というものを想定します。集合的無意識とは個人の無意識のさらに深層にあって、その視野は個人を超え全生物の深層心理にまで及ぶと考えます。普段の意識では窺い知れない深い意識のレベルでは世界は普(あまね)くつながっており、そのつながりが偶然の出会いを演出しています。表層の意識レベルでは偶然でも、深層からみれば必然です。その次元には、すでに現世にはない先祖の意識もあれば、いわゆる神々の世界もあるのです。こんなことを現実のこととして実感させられた平成二十一年十一月十五日の出来事について記させていただきます。

〇兼続の母の実家―尾崎氏

  宮内熊野大社から北へ約三百メートル、今は果樹園になっている左手の小高い丘が宮沢城址です。直江兼続の一統によって熊野大社の南に宮内の町割がなされる以前には、宮内といえばこの一帯でした。伊達の時代から蒲生の時代にかけて宮沢城を守ってきたのは知行三千石の大津家でした。しかし、兼続によって大津の知行は百石にまで召し上げられ、以後は神職として熊野に奉仕することになります。大津家は今も熊野の門前にあっていにしえの貴重な文書や獅子頭などの宝物を現代に伝えています。

 慶長三年(一五九八)、秀吉の命による上杉の国替えで、大津家に代わり宮沢城主となったのが、信州飯山から移った尾崎三郎左衛門重誉でした。重誉は遠く源頼朝の兄義平の子、泉親平を初代とする信州の名家泉氏を源流とします。泉氏十三代政重の時泉氏は、長男政重が名乗る尾崎家を宗家として八家に分かれ、泉八家、泉衆として北信濃を中心に勢力を誇示するようになります。宮内に入った尾崎重誉は政重から数えて十代目でした。

 重誉は二十歳の頃、今も子孫が宮内に残る板垣作右衛門兼定等同志四人と共に諸州を巡る武者修行に出掛けて徳川家康の目にとまり、天正七年(一五七八)、家康の駿河持舟城攻めに参戦して城主向井伊賀守を討ち取り、家康から禄を賜わったとの伝えが残るほどの人物でした。その後重誉は、信州小布施に居を構え飯山城を守る役目を果たしていたといわれます。宮内に来たのは四十歳のときでした。

 重誉が宮沢城主として宮内に在ったのは半年そこそこのわずかな間でした。当時の宮沢城とその周囲の様子が描かれた絵図が残されています。絵図には「北条宮内宮沢城 慶長三年より三桜城と云う」と記されていますが、信州飯山から運んだ三本の桜を植えたとも伝えられます。今も長野県飯山市の尾崎地区には三桜神社があり、四百年前の信州とこの地とのつながりが偲ばれます。 実はこの尾崎家こそ直江兼続の母親の実家です。兼続の母すなわち樋口兼豊の妻は、重誉の曾祖父尾崎家十七代泉弥七郎重歳の娘で、名は蘭子、法名は蘭室妙香大姉。慶長九年(一六〇四)に亡くなり、当時米沢に在った直江家の菩提寺徳昌寺に葬られたとの記録が尾崎家に伝えられています。 徳昌寺は兼続の妻お船の方が亡くなったあと、林泉寺とのいざこざから越後の与板に戻りました。徳昌寺は今も長岡市与板にあって、江戸期与板の領主井伊家家臣の菩提寺として、また良寛さんの父親の実家新木家や良寛さんと思いを寄せ合った維馨尼(いきょうに)の生家三輪家の菩提寺としても広く知られる名刹です。残念なことに蘭子についての伝承も米沢にあった頃の記録も何も残ってはいないようです。

 江戸時代新井白石によって著された大名や武将の系譜書「藩翰譜(はんかんふ)」以来、兼続の母は、兼続の妻お船の方の叔母、すなわち与板城主直江景綱の妹であるとされてきました。大河ドラマ「天地人」でも「お藤」の名で登場し、田中美佐子さんが演じました。しかしこの説に疑問を持って独自に調べられたのが、百歳を超えて今も元気に文筆活動をなされている小千谷市在住の渡邊三省氏です。渡邊氏は直江家と兼続の実家樋口家両家の格の違いに疑問を持って調査を進められ、「兼続の母は、信濃の泉弥七郎重歳の女(むすめ)であったと断定するものである。」(『正伝・直江兼続』)と結論付けられました。

 一方、今は長崎県在住の尾崎家本家に伝えられる「正徳五年公献故系譜」という文書にも、泉弥七郎重歳娘蘭子の長男が兼続であり直江家に入ったことが記されていることが明らかになっています。この文書は現在長野県立歴史館に所蔵され研究者による解明が待たれています。 こうした中、兼続研究の第一人者花ヶ前盛明氏が、平成二〇年四月発刊の『直江兼続』の中で「兼続の母について、与板城主直江景綱の妹とする説があるが、これは誤りである。・・・兼続の母は信州武将泉弥七郎重歳の娘であった。」と明確に記されたことで、最近は兼続関連刊行物のほとんどが泉氏説を採るようになっているようです。大河ドラマでは高嶋政伸さん演ずる兼続の父親樋口兼豊の若い後妻およしを泉氏尾崎家の出という設定にして歩み寄っていました。新潟、長野は「兼続の母の実家は泉氏尾崎家」説がすっかり定着しているようです。

〇和光神社での歴史的出遇い

 平成十年(一九九八)は上杉の国替え四百周年でした。その夏南陽文化懇話会が段取って、当時仙台在住尾崎本家の尾崎翠氏、分家筋の米沢在住尾崎哲雄氏はじめ、飯山市尾崎地区の方々、宮内在住のゆかりある方々が集って四百年祭の行事を執り行いました。このとき、それまで何もなかった宮沢城址に、小山邦武飯山市長に揮毫していただいた標柱を立てていただきました。しかし歳月を経てその標柱も朽ち、遠方から訪ねて来られる方などから「せっかく来たのに何もない」との苦情が耳に入り心苦しく思ってもいるところでした。

 旧知の元飯山市議服部一郎氏から、飯山市尾崎地区の方々が南陽、米沢を訪問することになったのでよろしくとの連絡が届いたのは昨年十月のことでした。朽ちた標柱の話をしたところ、それから数日後、こんどはずっと丈夫な標柱を用意して持ってゆく旨の連絡が入りました。柱は建築会社を営む元飯山市議会議長の上村力氏から寄贈を受け、石田正人飯山市長が揮毫してくれることになっているとのこと。こちらも個人的な対応で済むことではなくなって、十一年前の四百年祭同様南陽文化懇話会としてお迎えすることになりました。

 十一月十五日のその日、外での立柱式が危ぶまれるような朝から時折嵐のように激しい出し荒れの不安定な天気でした。飯山からの一行、正午到着の予定が、ここ数年道路状況がよくなっていたこともあってか一時間も早い到着となり、立柱式をしてからという予定を変更して、先ず最初に熊野大社に参拝していただくことになりました。特に尾崎家代々の氏神様である和光神社には正式参拝していただくべく神社にもお願いしてありました。和光神社で正式参拝という例はかつてそうはなかったはずです。四百年祭の際も祭事は神社拝殿で行っただけでした。 飯山の一行は尾崎地区が属する外様公民館の服部秀人館長を団長に男女ほぼ半数ずつの十九名でした。飯山の方々による宮沢城址保存会の会長として上村力元飯山市議会議長も一緒です。マイクロバスに立派な柱を積んで来られました。時間が早まったため迎える側は私ひとりです。予定の変更を社務所に連絡してしばしの歓談の後、神社へと向かいました。

 飯山の一行が石段を登っている時です。北野宮司が上で、大きな声を上げだしています。「奇遇だ、奇遇だ」というのです。何事かと登りきってみると、なんとそこには和光神社を目指すもう一つの団体があったのです。実はその一行二十数名は福島和光神社の氏子さんたちだったのでした。

 尾崎重誉が飯山から宮内に入ったのが慶長三年(一五九八)の三月、なぜかその年の九月には福島城代として福島上名倉へと移っています。当然の事ながら重誉は宮内から福島へと和光神社を勧請し、その神社がその後四百年を越えてその土地の人々によって守りつづけてこられていたのでした。神社がある土地の字名も和光になっています。そこの氏子の方々が、何の打ち合わせもなしに、飯山の一行と和光神社の御神前で出遭うことになったのです。お互い驚きあっての突然の交流、そして和光神社への正式参拝。期せずして和光神社に縁ある三つの土地の代表が玉串を捧げることになったのでした。その後の立柱式、朝からの嵐もいつのまにかおさまり、後で写真を見たらすっかり青空になっていたのも驚かされたことでした。

宮沢城址宮司mini.jpg

 〇福島・阿部氏からの手紙

 その日は和光神社の前で一緒に記念写真を撮っただけで別れたのですが、後日、福島の一行を率いておられた阿部輝郎氏に連絡をとったところ、ていねいな返書をいただきました。阿部氏は「福島民友」の論説主幹を務めたこともある方で、多くの著作もお持ちの方です。阿部氏からのお手紙の一部を紹介させていただきます。《熊野大社での奇遇、あの瞬間的な出会いが、私に素晴らしい歴史の永遠の宝庫の扉をひらいてくれたようなそんな心地がしております。ただ感謝あるのみです。

 なぜ、あの偶然の出会いが起こったか、福島の立場から経過をご説明します。 福島・上名倉の和光神社は尾崎重誉が勧請したと伝えられていますが、本殿を改築することになり、浄財を募ることになりました。しかし和光神社が、どこから来て、祭神が何か、同じ和光明神は他にもあるはず・・・と聞いたところ、そうしたことは不明のままという。神社の看板にも「尾崎重挙」(重誉のこと?)と書いてあります。そこで第三者である私は、来歴を氏子にPRすることが有用と考え、勝手に調査してみました。そして長野県飯山市の尾崎に和光明神と東源寺の本源があること、山形県南陽市に尾崎重誉の城跡と熊野大社に和光神社があり、また米沢市に東源寺があることを知り、それぞれ現地調査を行い、その結果を氏子総代にお知らせし、本殿改築を四百年記念として進めるPR―という形に進み出したところです。

 今回の旅行では、飯山の尾崎に行くか、南陽の熊野大社に行くか、多くの人に諮ったところ、今年は南陽の熊野大社、来年は飯山の尾崎・・と決定しました。そして一行二十八人が、あの熊野大社の階段を踏んでいた次第です。そのとき神官が階段の上で「これは歴史的な奇遇だ」と大声で言っていました。私たちの福島の一団と、飯山の一団が入り交じって階段を上がっていたのです。おそらく先頭の福島の一人が「福島の和光神社から来た」と告げたに違いなく、神官が突然の奇遇に一驚したのだと思います。私たちはこれより先、米沢の東源寺に寄り、楠住職から「午前に福島東源寺の檀家の皆様を迎え、午後に飯山の旧東源寺の関係者を迎えることになっていますが、歴史の偶然に感動しています」と聞かされてはいましたが・・・。ともあれ熊野大社で予期しない形で「飯山、南陽、福島―の四百年に一度の再会」が実現したのでした。

 それにしても私の調査は、ほんの入り口に立ったばかりですが、この際、多くの人に歴史の勉強をしようと提案し、あの熊野大社詣でが実現しました。そして、参加者の奇遇への感動は大きなものがあり、バス内ではその話題で持ち切りだった次第です。・・・私は福島の東源寺に墓地を得ており、和光神社の氏子の一人です。戦国の世を駆け抜けた尾崎重誉が、なんと福島のこの地で没しています。私たちの福島では、そうしたことがまだよく知られていません。これから勉強して地域の人々と歴史を共有したいと考えています。飯山の尾崎郷五束にある旧東源寺跡は現在では水田になっていますが、そこを耕している人も一行の中にいたのには驚きました。福島での、いわゆる「尾崎学」は、飯山や南陽に比べて大きく立ち後れています。今後のお導きをお願いするところであります。(以下略) 》

 恐縮しつつ、次のように返信しました。《早速御返信賜りありがとうございます。昂ぶる気持ちを抑えきれずに読ませていただきました。また、資料を拝見し、当地についてここまで調べていただいていたかという驚きを禁じえません。「奇遇」という言葉では包みきれない大きな力の働きかけをあらためて実感しているところです。・・・・・》

 〇歴史の闇の中の尾崎家

 尾崎家の歴史は謎に包まれています。尾崎文書の解明を進められた錦三郎先生は、『南陽市史編集資料 第十集』の解説でこう述べておられます。

《慶長三年春、尾崎重誉が宮沢城に移ったことについて、どうしたことか、米沢藩の記録には一行もでてこない。それと共に、尾崎重誉が慶長三年夏、福島城に移ったことについても、米沢藩の記録には、まったく記載がない。多くは、慶長三年上杉景勝会津国替の時、福島城に入ったのは水原常陸介親憲であるとし、慶長五年からは本庄越前守繁長であるとしている。ところが、何通かの尾崎家文書、瑞蓮記(宮内板垣家文書)、福島城相伝などに、尾崎重誉が福島城に移ったとでており、疑う余地はないといえよう。》

 尾崎の歴史が消されているのは米沢藩の記録だけではありません。宮内の蓬莱院は、信州から宮内に移ってまもなく亡くなった重誉の祖母の戒名に由来するにも関わらず、そのことが寺には全く伝わってはいませんでした。尾崎文書や、若い頃から重誉と行動を共にしてきた板垣作右衛門兼定の子孫が書き残した「瑞蓮記」等で、飯山から重誉らと共に来たことが明らかな善行寺(今は米沢市西大通二丁目)の過去帳にも慶長以前の記録はありません。また、同じ文書から尾崎の家臣であったにちがいない宮内代官安部右馬助は、わざわざその出自を越後安部里と記す文書を残しています。しかし錦先生が手を尽くして安部里を探したがどうしても探すことができませんでした。どうも出自を偽ってまで尾崎の家臣であることを隠さねばならなかったように思えるのです。そもそも、兼続公の母親が尾崎家の出であることがなぜ正しく伝わらなかったのか、このことも大きな疑問です。

〇泉氏一族の転変  

 文禄四年(一五九五)の太閤検地に先立って作成された『文禄三年定納員数目録』という二千人に及ぶ上杉家臣団の知行目録があります。景勝に重用され、蔵奉行として財政に重きを成した泉沢河内守久秀が作成したものです。ちなみに久秀は兼続とは年上の幼馴染、大河ドラマでは東幹久さんが演じました。妻は宮沢城主尾崎重誉の姉です。置賜に入ってからは兼続の直臣として最上との最前線荒砥城を守りました。死後、嗣子がなかったため泉沢家は断絶しています。

 この『文禄三年定納員数目録』によると、尾崎三郎左衛門の知行高は〆て七四五五石になります。しかし、その後の知行目録、分限帳から尾崎の名は一切消えてしまいます。尾崎の先祖書によると、重誉が福島に移って間もなく亡くなった後、その子重雪が継いだ慶長四年(一五九九)、福島在番時代にある事件にて嫌疑を受け、泉八家の中、岩井氏を除く七家がすべて知行を没収、家来同心と共に直江に預けられ、小佐原姓を名乗って逼塞させられたというのです。岩井氏が改易を免れたのは、抜け駆けして米沢に訴え出たということになっています。岩井を除く泉衆挙げて改易というこの事件がいったいどんな事件だったのかを知る手懸りはありません。

  さらにその後、福島在番を外されて米沢に戻った尾崎重雪は、「尾崎家譜」によると、翌五年二月三百石で召し出され、関ヶ原役には越後一揆としめしあわせて津川口から越後に侵入して戦功を立てたのですが、慶長十八年(一六一三)には支配下の鉄砲組の紛争で勘気を受けて他の泉氏一族とともに再び知行を失い、元和元年(一六一五)になって三十二人扶持、大小姓に取り立てられたとなっています。泉八家の一つである大滝家の系図には、この間直江兼続の庇護を受けたことが記されているとのことです。

 度重なる泉氏一族の転変は一体何なのか。どうも国替えの二十年も前に起きた御館の乱が影を落としているように思えてなりません。

〇御館の乱と泉衆

   天正六年(一五七八)謙信公亡き後、二人の養子、謙信の甥景勝と北条氏康の子三郎景虎の間で起こった跡目争いである御館の乱、その後の信州飯山は激動の真っ只中に叩き込まれることになります。

 当時の飯山城代は桃井伊豆守義孝。泉氏が八家に分かれるずっと以前、七代、八代、九代が桃井氏を称していることからその流れを汲む武将と考えられます。この桃井義孝は三郎景虎に組し、春日山攻撃で討死と伝えられています。このとき桃井と行動を共にして討死したのが重誉の祖父尾崎重信です。泉八家のうち、岩井、大滝以外は三郎景虎方であったようです。結局この乱は景勝側の勝利で決着するわけですが、この戦の帰趨を決めた景勝と武田勝頼の和睦を受け、飯山は上杉から武田の支配下に替わります。それが幸いしたのでしょうか、三郎景虎についた泉の一族は滅亡を免れます。

 その後天正十年(一五八二)、武田勝頼は織田信長によって亡ぼされ、飯山は信長から北信濃四郡を与えられた森長可(ながよし)の支配するところとなります。景勝はこれに対し、やはり泉衆とは縁深い芋川親正を中心とする土豪や地侍、農民層による一揆を背後から支援します。かつては三郎景虎方に組した泉氏一族も景勝の意を受けて織田方に抵抗します。しかし形勢の好転なく、越中魚津城陥落も相俟って、上杉もいよいよ織田の軍門に下ろうかとするちょうどその時、本能寺の変で信長が倒れるのです。この報によって森長可は急遽信濃から退陣、景勝はその後を追ってこの地を奪い返すことになります。

 こうして新たに飯山城代となるのが、父昌能の代に飯山城主であった岩井備中守長能(ながよし)です。長能は、御館の乱では景虎に付く者が多かった泉衆の中にあって一貫して景勝側で戦いました。長能は景勝の信頼厚く、度重なる戦乱で荒れた飯山城の普請と城下の町づくりにあたります。(平成十六年には今の飯山の基礎をつくった功績をたたえる石碑が飯山城跡に建てられています。)

  織田勢との争いの中で、長能が兼続に派兵を要請した書状が残されていますが、この書状からは泉衆を景勝につなぎとめようとする長能の役割もうかがえます。その後慶長三年の国替えで長能は、陸奥宮代(福島市)の城代として六千石を知行することになります。この岩井家のみはその名跡、知行を守りつづけるのですが、他の泉衆は関ヶ原戦役後の分限帳から名前を消してしまいます。そこに長く尾を引く御館の乱の影響を思うのです。三郎景虎に組した尾崎をはじめとする泉氏の一族は、景勝にとっては赦すべからざる一族でありつづけたのではなかったか。

 そこで注目されるのが直江兼続の存在です。景勝に敵対した桃井伊豆守と共に春日山で討死した尾崎重信は兼続の母の兄弟、兼続にとっては伯父でした。とすると、泉氏一族が上杉藩の中で生き延びてゆく上で、直江兼続の役割が大きな比重を占めていたにちがいありません。そのことは、福島での不始末後の「直江への預かり」、慶長十八年勘気を受けた際の「兼続による庇護」という記録からもうかがえます。兼続は御館の乱の後生涯に亘り、景勝と血縁の身内の間にあって緩衝の役割を果たしていたのではなかったか。あるいはこのことが、直江兼続の死後の不遇、すなわち「達三全智居士」という簡略に過ぎる戒名、直江家家名の断絶、さらにはお船の方亡き後、菩提寺である徳昌寺の破却といったこととどこかでクロスしていたのかもしれません。 

〇むすび

  上滑りな「愛」や「義」で語られるのでない、まさに血をほとばしらせながら駆け抜けねばならなかった戦国の時代、私の住む宮内に残る足軽町から粡町へのクランク、六角町から本町への、本町から宮町への、新町から柳町への変形十字路、当時の人たちがどんな思いでこんな道路を切ったのか。今の私たちは、その後の徳川泰平の世を通してあの時代を見てしまうけれども、江戸の初期、あの時代の人たちはいつ攻め込まれるかわからない戦々恐々の中で今の宮内の礎を築いたのです。宮内の町はまさに四百年前の時代の思いを今に伝えている、すごいことだと思う、あの先人の思いに通ずるほんとうの歴史に迫りたい、そんな思いでいた、そんな中での、尾崎家代々の御先祖、尾崎家を守る神々のお計らいとしか考えようのない「歴史的奇遇」でした。歴史の真実解明を促して止まない、「『奇遇』という言葉では包みきれない大きな力の働きかけ」があってのことのようにも思えたことでした。

 一昨年の十月、山形市での「天地人」シンポジウムで、加来耕三氏が、「NHKの教養部門とドラマ部門は全く別のセクションで、歴史を題材にする際、教養部門は事実かどうかのウラをとるが、ドラマ部門では事実かどうかは問題にならない。山形はまじめな人が多いので、直江兼続について歴史的事実と異なるということが問題にならないかと心配だ」と言われたといいます。その話を聞いて不安を感じていました。案の定、大河ドラマ「天地人」は終わってみれば大河ドラマ本来のエネルギーはすっかり「坂の上の雲」に譲り渡した風で、歴史の実像からは程遠い、低調な朝ドラレベルの時間消化的ホームドラマでしかなかったことが口惜しくてなりません。

 なまじ「愛」と「義」へのこだわりが歴史を見る目を曇らせてしまったようです。謙信謀略説もある景勝の父長尾政景の不審な死、昨日までの同族仲間同士が血で血を洗わねばならなかった御館の乱、関ヶ原戦役敗者側ゆえ負わねばならなかったつらい運命、恩義ある豊臣家に叛旗を翻さざるを得なかった大阪の陣、さらに時代は下って、雲井龍雄をして悲憤慷慨血涙を流さしめた、戊辰の戦における会津、庄内への裏切り、決してきれいごとではすまなかった歴史の現実を思うとき、「 愛と義のまち」を標榜することが正解なのかどうか、「天地人」のブームが過ぎ去った今、あらためて問い直してみることも必要なのではないだろうかとも思えてくるのです。 

◎     参考文献
・     「飯山市史 歴史編 上」(飯山市、平成五年)
・     「外様村史」(飯山市外様公民館、昭和三十二年)
・     「南陽市史 中巻 近世」(南陽市、平成三年)
・     「南陽市史編集資料 第十号」(南陽市、昭和五十八年)
・     「上杉氏文禄三年定納目録の真実性」(伊東多三郎「近世史の研究 第五冊」昭和五十九年)
・     「わが家の記録 源流」(尾崎哲雄、平成十六年)
・     「正伝・直江兼続」(渡邊三省、平成十一年)
・     「直江兼続」(花ヶ前盛明、平成二十年)
・     「直江兼続 家康を挑発した智謀の将」(相川司、平成二十一年)

宮沢城絵図mini.jpg


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:moblog

nice! 0

コメント 2

めい

「御館の乱と泉衆」に書いたことが、今日の山形新聞の連載小説「三人の二代目」(堺屋太一)に詳しく書いてありました。転載させていただきます。

   *   *   *   *   *

天下布武大戦略―肝で戦う(4)

越後の国は西から東北に伸びる大国だが、南北の奥行きが浅い。特に春日山城のある上越では、国境の峠から春日山城まで十里ほどに過ぎない。

このため、上杉謙信は北信濃の支配権を巡って武田信玄と何度も川中島で戦った。

しかし、結局北信濃は武田領となり、武田を滅ぼした織田のものになった。信長はこれを、小姓頭森蘭丸の兄の森長可に与えた。

ところが、四月七日、長可が川中島の海津城に入った直後、この一帯で大規模な一揆が起こった。八千人の群集が芋川親正なる者を首領にして飯山に立て篭もったのだ。この一揆は武田の残党が煽ったというが、上杉家の関与も否定できない。

「北信濃は治め難い土地柄だ。森長可殿も仕置きに半年、いや一年はかかるだろう。さらに遠い上野の国はなおのことだ。」

上杉景勝と直江兼続は、そう読んでいた。

だが、織田家は違った。一揆の報せに、織田信長と信忠の父子は、直ちに戦闘部隊を派遣し、一揆の衆二千四百五十余を斬り殺して制圧、長可の越後出兵を促したのである。

天正10年(1582)五月二十七日払暁、越中天神山で、
「織田勢、春日山城に迫る」
の報せを受けた上杉景勝は、魚津と松倉の二城の救援を諦めて春日山城に取って返した。

魚津近くの天神山から春日山まで約二十里、この道を景勝率いる上杉勢八千人は、一昼夜半で駆け通した。

五月二十八日夕刻、景勝は春日山城の本丸櫓上層に立ったが、そこからは森長可の先駆けの姿が遠望できたほどだ。

それだけではない。上野から三国峠を越えた滝川一益の一万人余も、荒戸や樺沢の城を迂回して柿崎城の周辺まで来ているという。また景勝が引き揚げた越中からは十二将が、「魚津に篭って玉砕する」と伝えて来た。遠からず、西からも柴田勝家の大軍が押し寄せるのは必定である。

「義兄上武田勝頼公は、新府城を焼き払って遁走、惨めな結果になった」
景勝は妻の菊姫を引き寄せていった。
「俺は逃げない。この城で天下の軍と戦う」
景勝が暗くなった海を睨んでいった時、
「仙桃院様のお越しです」
という声がした。直江兼続の妻お舟の声だ。

by めい (2010-05-12 10:29) 

めい

山形新聞の連載小説「三人の二代目」(堺屋太一)、8月14日付339回、「天下分け目の水無月―勝利の分配(5)」より

   *   *   *   *   *

甲斐や信濃に「本能寺の変」が伝わったのは、6月8日から9日にかけてのことだ。これをいい広めたのは行商人や旅の僧、それに徳川家康の放った乱輩(攪乱工作人)である。
武田攻めの功によって、織田家の家臣たちに甲・信の領地を割り当てられたのはこの年の3月29日、実際に着任したのは4月になってからだ。それからやっと2ヶ月、居城の普請も統治の組織も未完成だし、年貢も取っていないから兵糧も乏しい。
信濃境の美濃岩村では、新領主の団平八と森蘭丸が事変で討ち死に、留守居の者も一揆を恐れて逃げ出した。
これを知ると、信濃の伊那を与えられていた毛利秀頼も尾張の旧領地に駆け戻った。信濃南部は、瞬くうちに治める者のいない無政府状態になってしまった。
北信濃4郡を与えられていた森長可も慌てた。西の越中から攻める柴田勝家と同調して上杉家の春日山城の攻略を目論んでいたのだが、もうそれどころではない。何とか兵を纏めると、川中島の城を捨て、一揆の襲撃を凌いで美濃の本拠に辿り着いた。
by めい (2010-08-22 10:31) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。