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横峯方式をどう理解するか [横峯式]

 横峯方式を幼稚園の先生方に理解してもらいたくて年頭に書いた文章を載せておきます。

   *   *   *   *   * 

「子どもの脳の発達 臨界期・敏感期 早期教育で知能は大きく伸びるのか?」という、早期教育の是非について論じた本を読みました。その結論部分に、子どもに備わっている「自分で育っていく力」の力強さをあらわす言葉としてrobust(形)robustness(名)という英語がでてきました。

 引用してみます。

世界中の子ども達の生きている環境はさまざまだ。それは、ニューヨークのセントラルパークに沿う高級アパートメントの一室かもしれないし、北海道の牧場かもしれない。マレーシアのジャングルでロングハウスのなかを走り回っている子ども、一歳過ぎまで布で全身をぐるぐる巻きにされて育てられているボリビアの山岳地帯の子ども、あるいはモンゴルのゲルの中で暮らしている子どもかもしれない。子ども達の育つ環境や育児の習慣はきわめて多様性に富んでいる。幼児期から裸馬に乗っているモンゴルの子どもも、いかだの上で生活をして、土を踏むこともなく、幼児期から泳いでいる子どももいる。

 絵本の語りかけを熱心に行っている親もいれば、子どもには話しかけないのが習慣になっている部族もいる。

 子ども達が聞く言語もさまざまだ。母音が五つの日本語、複合母音まで入れると三〇近くある英語、イントネーションが四つある中国語や八つもあるタイ語を聞いて育っている子ども達もいる。

 これほどの多様な環境に育っているにもかかわらず、世界中の子ども達は、ほぼ五ヶ月で寝返りし、一歳で立位歩行を開始するし、最初の誕生日にはひとつくらい意味のある言葉をしゃべるようになる。最初の一〇単語が出るのにかかる期間が五ヶ月前後であるのは、日本でもアメリカでも同じだ。 こうした発達の同一性があるからこそ、私たち小児科医は、多数の子どもの発達の標準を記録した発達スケールを信じて、子どもの発達を判断することができるのだ。しかし、それほど多様な環境に育ちながら、この驚くべき発達の過程の同一性があるということはどう説明すればよいのだろうか。 これこそ、発達の専門家が等しく認める子どもの発達のロバストネスの表れなのである。

 子ども達の発達は、早期教育をやろうがやるまいが、それによって大きく進路を狂わせることがなく、人として生きていくための知識とスキルを獲得するように調節されているのである。

 実はこの文章にうなづきながら、横峯さんの言葉が浮かびました。

 

「小学校の先生に『小学校は何をするところですか』とたずねてもまともな答えが返ってこない。行ってさえいればいい場所なのか。」

 次のようにも言っておられます。

〈今の学校、特に幼稚園、保育園には目的意識がまるでありません。目的意識がないという自覚もありません。〉

 つまり、子どもは小さければ小さいだけ成長発達の度合いは大きい。それはまわりの教育力というよりも子ども自身に備わったロバストネスによるところが大きい。だから、幼稚園や小学校ではことさら「目的意識」など云々しなくても教育の結果は出たように見えるということなのではないだろうかということです。

 本来、幼稚園と保育園とでは明らかに目的、役割はちがっていたはずです。しかし、いまこのことがすっかりあいまいになってしまっています。その結果、幼稚園も保育園も同じ土俵の上で、「子どもにとって」よりも「親にとって」を主眼にしたサービス競争になってしまっている。そうした中での幼稚園の窮状のように思えます。幼稚園はこのことを深く認識し、教育機関としての本来の機能をあらためて取り戻して今後の方向を定めてゆく必要に迫られてるのです。

 宮内幼稚園についていえば、「キリスト教保育」という言葉はありますが、正直のところ私自身目指すところがあいまいなままです。「イエス様を通して」「お祈りを通して」「聖句暗誦を通して」「讃美歌を通して」「聖誕劇を通して」、具体的にどのような子ども達を育てようとしているのか、このことにつてこれまでどれだけ本気で議論してきたことがあったのでしょうか。自分の信念にどこまで自信が持てますか。この前の議論を聞く限り、私にはたいへん心もとなく思えました。

 横峯方式はマスコミによってセンセーショナルな取り上げられ方をしたために誤解されている面も多々あるようですが、私にとっては時間が経つほどに、幼児教育の根幹を押さえた教育法であると思わされるようになっています。私はこの前その根幹について「最後に勝つのは独学の力」と「時機を逃すな」という二つの言葉で自分の体験も交えながら説明したつもりでした。

 まず、「最後に勝つのは独学の力」について。

 「勝つ」というのは「誰かに勝つ」というより「力になる」という意味で考えてください。

 自分自身を振り返って、学んできたことで「身に付いている」のは、結局のところ「自分自ら関心をもって学んだこと」につきるとは思います。

 私の大学時代は日本国中「大学紛争」の時代でした。私の大学でも授業ボイコットのストライキがあり、警官隊が大学内に入って学生との争いになって警官一人が亡くなるという事件があったりもしました。そういう中での勉強は自分でやるしかありません。おかげで自分の関心の赴くままに彷徨った挙げ句メルロー・ポンティという人に出会うこともできたのでした。まだ翻訳されていない原書が読みたくて独学でフランス語をかじったりもしたものでした。今から思うと、時間だけはたっぷりあった贅沢な時代だったと思いますが、そうやって書いた卒業論文は、あれから40年経った今読んでもなるほどと思えます。そしてたしかに私のものの考え方の基底になっています。あの自学自習の力が幼児期からついていたら、と思うのですが、横峯さんは次のようにも言っています。

〈しっかり覚えておいてください。小学校に入学したら、その先9年間、「義務教育」という強大な怪物(モンスター)が、あなたの子どもを牛耳るのです。そのシステムの犠牲者にならないためには、3歳からの育て方が大事。幼児期のうちに「自学自習」という最強の習慣を叩き込むことが大切なのです。〉

〈小学校に入学して、つまらない一斉授業を受けることになっても、自分から学び、自分で感じ取れる力、「自学自習」の習慣さえ6歳までに身につけていれば、その子はマイペースできちんと学べるはずです。学ぶことが楽しいから、授業にも落ちこぼれることがないはずです。日本の教育システムが変えられない以上、幼児期に自分で学ぶ力を植えつけることが何より大切です。〉

 自分自身の体験から、そして二人の不登校児を持った親の立場から痛いほど心にこたえる言葉です。

 もうひとつは「時機を逃すな」です。

 「臨界期」ということが今後、最新の脳科学研究の成果を受け、幼児教育を考える上で重要な言葉としてクローズアップされてくるはずです。

 理化学研究所脳科学研究センター臨界期機構研究グループディレクターというヘンシュ貴雄氏によると、臨界期Critical periodとは「脳の発達においてもっとも重要な(敏感な)時期。この時期を過ぎて新たに何かを覚えようとしても覚えられなくなる、タイムリミットのようなもの」です。脳のしくみという観点からは「環境から刺激が入ってきた時、脳の中の覚えたり感じたりする神経回路がその刺激の影響で集中的に作られたり、回路の組み替えがさかんに行われる時期」といえます。

「脳が一時的に、乾いたスポンジのように、吸収力が非常に高まった状態」の時期です。人間は、柔らかく物覚えのいい幼年期を経て、吸収力の低下とともに安定した脳になり、老年期とともに少しずつ物忘れがはじまるというのが人間の自然のサイクルであることが、最新の脳科学の研究成果としても明らかになってきているのだそうです。ヘンシュ貴雄さんの「頭のいい子ってなぜなの?最新の脳科学研究がつきとめた”脳が育つ”メカニズム」という本は、脳科学の最先端について、読者の身になって極力わかりやすく書かれた大変いい本です。ぜひ目を通してみてください。

 私は父親の不器用さをみながら、自分の運動神経の鈍さは生まれつき、とずっと思い込んでいました。しかし、だいぶ大きくなってから知ったのですが、父は次男で、父が生まれる前に長男が亡くなっていたのでした。祖父母はそのことがトラウマとなって、父が生まれてからは決して危ないことはさせないようにと安全に安全に育てた結果の父の不器用さだったのです。祖父母は私に対しても同様の態度で接していたのを今でも覚えています。

 音楽についても、今でもそうですが、昔から余裕のない朝から晩まで年中ばたばたの家で、そうした素養を家庭で身に付くことはないままに義務教育の場に送り出されました。多少はその後補ったものの、今でも苦労しています。「できる子どもはほおって置いてもできる。できない子どもをできるようにしてやること、それが私のいちばんのテーマだ。」そういう自分であればこそ、この横峯さんの言葉は重く響いたのでした。 


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