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四百年の歴史を越えて―兼続公の母がとりもつ?奇跡の出遇い [直江兼続]

“直江兼続公の母がつなぐ縁”信州飯山市との交流の集い(2)で書いたことを、その後のことも含めて「週刊置賜」に書かせていただきました。転載しておきます。

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 四百年の歴史を越えて――兼続公の実母がとりもつ?奇跡の出遇い 

飯山からの来訪

  十月の末、旧知の元飯山市議服部一郎氏から、飯山市尾崎地区の団体で南陽に行くのでよろしくとの電話があった。その時、一九九八年に国替四百年を記念して立てた宮沢城址の標柱が朽ちてしまったことを伝えた。数日後、ずっと丈夫な標柱を用意して持ってゆく旨の連絡が入った。柱は建築会社を営む元飯山市議会議長の上村力氏から寄贈を受け、石田正人飯山市長が揮毫してくれることになっているとのこと。こちらも個人的な対応で済むことではなくなって、十一年前と同じく南陽文化懇話会としてお迎えすることになった。 十一月十五日のその日、南陽文化懇話会の役員のほか、ゆかりある方々にも声を掛け十五名で迎えることになって準備を進めていた。正午到着の予定だったのだが、ここ数年道路状況がよくなっていたこともあってか一時間も早い到着となった。急遽予定を変更して、最初に熊野大社に参拝していただくことにした。飯山から勧請された和光神社には正式参拝していただくべく、北野宮司にはあらかじめお願いしてあった。 神社境内の東北の角、丑寅の方角に鎮座する和光神社は、丑年寅年生れの人をお守りする虚空蔵様として親しまれている。実はこの神社は、尾崎氏の先祖泉氏以来代々の氏神様、秀吉の命による上杉転封に伴い、慶長三年(一五九八)、宮沢城主として宮内を差配することになった尾崎重誉が飯山からお遷しした神社である。

 尾崎重誉は泉氏尾崎家の第十代、直江兼続公の母、すなわち樋口兼豊の妻は、重誉の曽祖父である尾崎家第七代重歳の娘であることが明らかになっている。江戸時代新井白石によって著された大名や武将の系譜書「藩翰譜」以来、兼続の母は、兼続の妻お船の方の叔母、すなわち与板城主直江景綱の妹であるとされてきたのだが、近年の研究は尾崎家の出であることを正しいとするようになってきた。飯山の方々の久しぶりの来訪も、当然このことへの関心が背景にあってのことである。大河ドラマ「天地人」は、忘れかけていた四百年前の様々な記憶を、関わりある人たちの心によみがえらせてくれたのである。

和光神社での歴史的出遇い

  さて、飯山の一行は尾崎地区が属する外様公民館長服部秀人氏を団長に男女ほぼ半数ずつの十九名。飯山の方々による宮沢城址保存会の会長として上村力元議長もお出でいただいた。一通りの挨拶のあと休む間もなく神社へ向かう。そして石段もあと少しのその時だった。北野宮司が上で、「奇遇だ、奇遇だ」の大きな声を上げだした。なんと上った先には和光神社のご神前に向かうもう一つの団体があり、その一行二十数名は福島和光神社の氏子さんたちだというのだ。尾崎重誉が飯山から宮内に入ったのが慶長三年の三月、なぜかその年の九月には福島城代として福島上名倉へと移っている。当然の事ながら重誉は福島にも和光神社を勧請し、その後四百年を越えてその土地の人々によって守りつづけてこられたのだった。字名も和光になっている。その氏子の方々が、何の打ち合わせもなかったのに、飯山の一行と和光神社の御神前で出遭うことになったのである。お互い驚きあっての突然の交流、そして和光神社への正式参拝。何ということか、期せずして和光神社に縁ある三つの土地の代表が玉串を捧げることになったのだった。

福島阿部氏からの手紙

後日、福島の一行を率いておられた阿部輝郎氏に、当日についての新聞記事や「兼続公と南陽の関わり」関連資料を添えて手紙を認めた。すぐ丁重な返書をいただいた。阿部氏は「福島民友」の論説主幹を務めたこともある方で、多くの著作もお持ちである。阿部氏からのお手紙の一部を紹介させていただく。

   

≪熊野大社での奇遇、そして高岡様からの資料の数々、有り難く厚くお礼を申し上げます。

あの瞬間的な出会いが、私に素晴らしい歴史の永遠の宝庫の扉をひらいてくれたような、そんな心地がしております。ただ感謝あるのみです。

 

なぜ、あの偶然の出会いが起こったか、福島の立場から経過をご説明します。

 

福島・上名倉の和光神社は尾崎重誉が勧請したと伝えられていますが、本殿を改築することになり、浄財を募ることになりました。しかし和光神社が、どこから来て、祭神が何か、同じ和光明神は他にもあるはず・・・と聞いたところ、そうしたことは不明のままという。神社の看板にも「尾崎重挙」(重誉のこと?)と書いてあります。そこで第三者である私は、来歴を氏子にPRすることが有用と考え、勝手に調査してみました。そして長野県飯山市の尾崎に和光明神と東源寺の本源があること、山形県南陽市に尾崎重誉の城跡と熊野大社に和光神社があり、また米沢市に東源寺があることを知り、それぞれ現地調査を行い、その結果を氏子総代にお知らせし、本殿改築を四百年記念として進めるPR―という形に進み出したところです。

今回の旅行では、飯山の尾崎に行くか、南陽の熊野大社に行くか、多くの人に諮ったところ、今年は南陽の熊野大社、来年は飯山の尾崎・・・と決定しました。そして一行二十八人が、あの熊野大社の階段を踏んでいた次第です。そのとき神官が階段の上で「これは歴史的な奇遇だ」と大声で言っていました。私たちの福島の一団と、飯山の一団が入り交じって階段を上がっていたのです。おそらく先頭の福島の一人が「福島の和光神社から来た」と告げたに違いなく、神官が突然の奇遇に一驚したのだと思います。私たちはこれより先、米沢の東源寺に寄り、楠住職から「午前に福島東源寺の檀家の皆様を迎え、午後に飯山の旧東源寺の関係者を迎えることになっていますが、歴史の偶然に感動しています」と聞かされてはいましたが・・・。ともあれ熊野大社で予期しない形で「飯山、南陽、福島―の四百年に一度の再会」が実現したのでした。

それにしても私の調査は、ほんの入り口に立ったばかりですが、この際、多くの人に歴史の勉強をしようと提案し、あの熊野大社詣でが実現しました。そして、参加者の奇遇への感動は大きなものがあり、バス内ではその話題で持ち切りだった次第です。

(中略)

 私は福島の東源寺に墓地を得ており、和光神社の氏子の一人です。戦国の世を駆け抜けた尾崎重誉が、なんと福島のこの地で没しています。私たちの福島では、そうしたことがまだよく知られていません。これから勉強して地域の人々と歴史を共有したいと考えています。飯山の尾崎郷五束にある旧東源寺跡は現在では水田になっていますが、そこを耕している人も一行の中にいたのには驚きました。福島での、いわゆる「尾崎学」は、飯山や南陽に比べて大きく立ち後れています。今後のお導きをお願いするところであります。(以下略)≫

   

 さすがの文章に敬服、恐縮しつつ、次のように返信した。

   

≪早速御返信賜りありがとうございます。昂ぶる気持ちを抑えきれずに読ませていただきました。また、資料を拝見し、当地についてここまで調べていただいていたかという驚きを禁じえません。「奇遇」という言葉では包みきれない大きな力の働きかけをあらためて実感しているところです。

実はあの日、阿部様が福島民友の記者をされていたとお聞きしましたので、後ほどネットで検索して数多くの著作もおありであることを知りました。そしてこのたびお送りいただきました資料を見せていただき、薄もやのかかった尾崎の歴史を解明する上で百人力を得た思いでおります。(以下略)≫

 

歴史から消えた尾崎氏の謎   

 

 実は尾崎の歴史は謎に包まれている。尾崎文書の解明を進められた錦三郎先生は、『南陽市史編集資料 第十集』の解説でこう述べておられる。

≪慶長三年春、尾崎重誉が宮沢城に移ったことについて、どうしたことか、米沢藩の記録には一行もでてこない。それと共に、尾崎重誉が慶長三年夏、福島城に移ったことについても、

米沢藩の記録には、まったく記載がない。多くは、慶長三年上杉景勝会津国替の時、福島城に入ったのは水原常陸介親憲であるとし、慶長五年からは本庄越前守繁長であるとしている。ところが、何通かの尾崎家文書、瑞蓮記(宮内板垣家文書)、福島城相伝などに、尾崎重誉が福島城に移ったとでており、疑う余地はないといえよう。≫

 尾崎の歴史が消されているのは米沢藩の記録だけではない。宮内の「上の寺」蓬莱院は、信州から宮内に移ってまもなく亡くなった重誉の祖母の戒名に由来するにも関わらず、そのことが寺には全く伝わってはいなかった。尾崎文書や、若い頃から重誉と行動を共にしてきた板垣兼定の子孫が書き残した「瑞蓮記」等で、飯山から重誉らと共に来たことが明らかな善行寺(今は米沢市西大通2丁目)の過去帳にも慶長以前の記録はない。また、同じ文書から尾崎の家臣であったにちがいない宮内代官安部右馬助は、わざわざその出自を越後安部里と記す文書を残している。しかし錦先生が手を尽くして安部里を探したがどうしても探すことができなかったという。どうも出自を偽ってまで尾崎の家臣であることを隠さねばならなかったように思える。そもそも、直江兼続公の母親が尾崎家の出であることがなぜ正しく伝わらなかったのか。 

 

直江兼続の実像に迫りたい 

大河ドラマ「天地人」は、ドラマとしては、はっきり言って期待外れだった。昨年の十月、山形市での「天地人」シンポジウムで、加来耕三氏が、「NHKの教養部門とドラマ部門は全く別のセクションで、歴史を題材にする際、教養部門は事実かどうかのウラをとるが、ドラマ部門では事実かどうかは問題にならない。山形はまじめな人が多いので、直江兼続について歴史的事実と異なるということが問題にならないかと心配だ」と言われたという。嫌な予感がしていた。案の定、歴史のリアリティなどどこ吹く風、最上義光も前田慶次郎も登場しない、その後の「坂の上の雲」と比べるまでもなく、安易で安上がりのホームドラマで終わらされたのが残念で口惜しくてならない。「大河ドラマ」の看板が泣いている。十数年に及ぶ地道な運動の成果、たしかに大河ドラマ「天地人」のおかげで、あらためて大切な郷土の偉人として直江兼続公への関心が高まった、それだけにこのままホームドラマの主人公で終わらせるわけにはいかない。なんとか直江兼続公の実像に迫りたい。上滑りな「愛」や「義」で語られるのでない、まさに血をほとばしらせながら駆け抜けねばならなかった戦国の時代、宮内足軽町から粡町へのあのクランク、六角町から本町への、本町から宮町への、新町から柳町へのあの変形十字路、当時の人たちがどんな思いでこんな道路を切ったのか。今の私たちは、その後の徳川泰平の世を通してあの時代を見てしまうけれども、江戸の初期、あの時代の人たちはいつ攻め込まれるかわからない戦々恐々の時代の中で今の宮内の礎を築いたのだ。宮内の町はまさに四百年前の時代の思いを今に伝えている、すごいことだ。大河ドラマ「天地人」のことなどさっさと忘れてほんとうの歴史をとり戻さねばならない、そんな思いでいた。そんな中での、尾崎家の先祖代々、尾崎家を守る神々のお計らいとしか考えようのない「歴史的奇遇」だったのだ。 闇に葬られていた尾崎の歴史、今それが、呻きをあげて真実を訴え出しているように思えてならない。なぜ尾崎の歴史が隠されてしまったのか。そこには、決してきれいごとでは済まされない私たちの足元にある歴史の真実や直江兼続という人の実像に迫る謎が隠されている。 

 

〇追記

 指が大河ドラマにまで及ぶとは考えもしないでとりかかった稿だったのだが、これも和光神社のお計らいか。20%を超えたという視聴率に満足していてはいけない、どこかで声を上げねばならないと思っていた。「遊人庵大河塾」という人気ブログがある。そこで“みんなで選ぶ「天地人」アカデミー賞”が企画された。今年は特にその特別顕彰部門に「今回の『天地人』に関わったことででもっとも甚大な被害をうけ、今後が危ぶまれる、彼(彼女)のせいじゃないのに気の毒すぎる、という方を選出」する“被害者で賞”が設けられ、その次点に「大河ドラマを誘致した新潟県・山形県のご当地の方々」が入っていた。私にとって「天地人」の終盤は、このブログを読む楽しみのために眠気をこらえながら日曜夜のテレビに見入っていたといってもいい。「天地人」を最後までがんばって見つづけた方はぜひアクセスしてみられるといい。たまっていた不満を昇華させてくれる。 尚、直江兼続公と南陽の関わりや尾崎氏、色部氏(兼続の妹の夫で金山城主)についてスライド化したものをDVDにして頒布(八百円)していますので、関心ある方はぜひお求め下さい。(置賜タイムス社でも取り扱っています。)
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