SSブログ

「続・直江兼続公と南陽―尾崎氏と色部氏」 [直江兼続]

スライド「直江兼続公と南陽」の続編がまもなく出来上がる。昨日ハイテックプラニングセンターからできてきたのを一日がかりで手直しして今日置いてきた。明日の「天地人絵巻ウォーク」、お客様があれば初公開したい。

当初は、昨年作ったものの改訂版のつもりだったのだが、その後の蓄積もあったので、「続・直江兼続公と南陽―尾崎氏と色部氏」とした。正続あわせると1時間近くになる。1枚にまとめて販売まで持ってゆくつもり。一昨日、新顔ぶれで初めての南陽文化懇話会の役員会で当会の事業として進めることの了承を得た。以下はその原稿。

   *   *   *   *   *

続・直江兼続公と南陽 -尾崎氏と色部氏-

1.秀吉朱印状
「この度、会津へ国替えについて、そのほう方のかちゅう家中、さぶらい侍の事は申すに及ばず、ちゅうげん中間・こもの小者に至るまで、奉公人たるもの、一人も残さず召し連れるべく候。・・・但し、当時でんぱた田畠をあいかか相抱え年貢沙汰し、検地帳面之百姓にあいきわ相究むるものは、一切召連れまじく候也」
 慶長三年、1598年の正月、豊臣秀吉は上杉景勝に越後から会津へのてん転ぽう封を命じました。武士とその家来は1人残らず連れてゆくこと、ただし年貢を納める農民達は一切連れて行ってはならないというものでした。

2.120万石時代の領地
上杉謙信以来、越後と信州の一部を治めていた上杉景勝は、それまでの領地の大半を手放す代りに、越後時代の佐渡、出羽庄内に加え、今の福島県なかどおり中通及び会津地方、宮城県の南部、そしてこの置賜地方、合わせて120万石を領することになったのです。当時18万石、長井ごおり郡と言われていた置賜盆地には、直江兼続をかしら頭とするその一統がはいります。兼続は米沢城主として6万石を領し、出羽庄内も含めた30万石を支配することになりました。

3.宮沢城址
その頃熊野の門前に開けた今の宮内の町はまだなくて、宮内といえば、熊野の森の北、今のしょうぶざわ菖蒲沢の一帯でした。熊野大社から北へ約300m、今はりんご畑の小高い丘に宮沢城と呼ばれるやかた館がありました。

4.大津家
伊達の時代からがもう蒲生の時代にかけて宮沢城を守ってきたのはちぎょう知行三千石の大津家でした。しかし、兼続によって大津の知行は百石にまで召し上げられ、以後はしんしょく神職として熊野に奉仕することになります。大津家は今も熊野の門前にあっていにし古えの貴重なもんじょ文書やししがしら獅子頭などのほうもつ宝物を現代に伝えています。

5.尾崎家系図
上杉の国替えによって大津家に代わり宮沢城主となったのが、信州飯山から移った尾崎さぶろう三郎ざえもん左衛門しげよ重誉でした。重誉は遠く源頼朝の兄よしひら義平の子、泉ちかひら親平を初代とする信州のめいか名家泉氏を源流とします。泉氏十三代まさしげ政重の時泉氏は、長男政重が名乗る尾崎家をそうけ宗家としてはちけ八家に分かれ、泉はっけ八家として北信濃を中心に勢力を誇示するようになります。その一つ中曽根家は総理大臣は生み出すことにもなります。初代米沢市長大滝りゅうぞう龍蔵もまつえい末裔のひとりです。宮内に入った尾崎重誉は政重から数えて十代目でした。

6.徳川家康、持舟城
 重誉ははたち二十歳の頃、今も子孫が宮内に残る板垣さく作うえもん右衛門ら等同志四人と共にしょしゅう諸州をめぐ巡る武者修行に出掛けて徳川家康の目にとまり、天正七年の一五七八年、家康のするが駿河もちふねじょう持舟城攻めに参戦して城主むかい向井いがの伊賀かみ守を討ち取り、家康からろく禄を賜わったとの伝えが残るほどの人物でした。その後重誉は、信州おぶせ小布施にきょ居を構え飯山城を守る役目を果たしていたといわれます。宮内に来たのは四十歳のときでした。

7.宮沢城絵図
重誉が宮沢城主として宮内に在ったのは半年そこそこのわずかなあいだ間でした。当時の宮沢城とその周囲の様子が描かれた絵図が残されています。絵図には「北条宮内宮沢城 慶長三年よりみざくらじょう三桜城と云う」と記されていますが、信州飯山から運んだ3本の桜を植えたとも伝えられます。今も長野県飯山市の尾崎地区にはみざくら三桜神社があり、四百年前の信州とこの地とのつながりが偲ばれます。

8.尾崎家系図 蘭子
実はこの尾崎家こそ直江兼続公の母親の実家なのです。兼続の母すなわち樋口かねとよ兼豊の妻は、重誉のそうそふ曾祖父尾崎家十七代泉弥七郎しげとし重歳の娘で、名は蘭子、ほうみょう法名はらんしつ蘭室みょうこう妙香だいし大姉。慶長九年の一六〇四年に亡くなり、当時米沢に在った直江家の菩提寺・とく徳しょうじ昌寺に葬られたとの記録が尾崎家に伝えられています。

9.徳昌寺
徳昌寺は兼続の妻おせん船のかた方が亡くなったあと、林泉寺とのいざこざから越後の与板に戻りました。徳昌寺は今も長岡市与板にあって、江戸期与板の領主井伊家家臣の菩提寺として、また良寛さんの父親の実家あらき新木家や良寛さんと思いを寄せ合ったいきょうに維馨尼の生家三輪家の菩提寺としても広く知られるめいさつ名刹です。残念なことに蘭子についての伝承も米沢にあった頃の記録も何も残ってはいないようです。

10.渡邊三省
江戸時代あらい新井はくせき白石によってあらわ著された大名や武将の系譜書「はんかんふ藩翰譜」以来、兼続の母は、兼続の妻・おせん船のかた方の叔母、すなわち与板城主直江かげつな景綱の妹であるとされてきました。大河ドラマ「天地人」でも「お藤」の名で登場し、田中美佐子さんが演じました。しかしこの説に疑問を持って独自に調べられたのが、百歳を超えて今も元気に文筆活動をなされている小千谷市在住のわたなべ渡邊さんせい三省氏です。渡邊氏は直江家と兼続の実家樋口家両家の格の違いに疑問を持って調査を進められ、「兼続の母は、信濃の泉弥七郎重歳のむすめ女であったと断定するものである。」と結論付けられたのです。

11.長野県立歴史館
一方、今は長崎県におられる尾崎家本家に代々伝えられる「しょうとく正徳5ねん五年こう公けんこ献故けいふ系譜」というもんじょ文書にも、泉弥七郎しげとしの重歳むすめ娘蘭子の長男が兼続であり直江家に入ったことが記されていることが明らかになっています。この文書は今長野県立歴史館に所蔵され研究者による解明が待たれています。

12.花ヶ前本
こうした中、兼続研究の第一人者はなが花ヶさきもりあき前盛明氏が、平成二〇年四月発刊の『直江兼続』の中で「兼続の母について、与板城主直江景綱の妹とする説があるが、これは誤りである。・・・兼続の母は信州武将泉弥七郎重歳の娘であった。」と明確に記されたことで、最近は兼続関連刊行物のほとんどが泉氏説を採るようになりました。大河ドラマでは高嶋政伸演ずる兼続の父親樋口兼豊の若い後妻およしが泉氏尾崎家の出という設定になっていました。

13.泉沢久秀
また、尾崎重誉の姉は重誉は荒砥城主であったいずみさわ泉沢かわちのかみ河内守ひさひで久秀に嫁いでいます。泉沢久秀は兼続の五歳年上の幼なじみで、大河ドラマでは東幹久が演じました。長谷堂の戦いで、上杉軍の主力は荒砥方面から畑谷に向かったのでしたが、久秀は最上に対峙する最前線を任されていました。尾崎重誉が宮内に入ってまもない慶長三年四月、久秀にあてた書状に記されています。その書状によって、当時の宮内の寺社のようすがわかります。

14.八幡神社
熊野大社拝殿に向かうとその左手にある八幡神社。今も飯山市にあるありおさん有尾山八幡神社をかんじょう勧請したものです。面白いことに、有尾山があり蟻おうさん王山に変わっています。

15.菅原神社、皇大神社
 拝殿左奥の菅原神社、右奥のこうたい皇大神社も飯山から勧請されたものと伝えられています。

16.和光神社
うしとら丑寅の方角、きもん鬼門である東北の角にちんざ鎮座するわこう和光神社。丑年寅年生れの人をお守りするこくうぞう虚空蔵さま様として親しまれていますが、実は尾崎氏の先祖泉氏代々のうじがみさま氏神様です。かつて飯山にあってはせいわ清和天皇に由来する源氏代々のしゅご守護しん神和光明神像をまつ祀っていました。飯山城をちくじょう築城した際には謙信公のめい命によって本丸に祀られていたのですが、えきびょう疫病まんえん蔓延の折病魔退散に大いに霊験を発揮したことから城の外に移し、多くの人の信仰に応えるようになったと伝えられています。

17.蓬莱院
 信州から宮内に移ったのは旧暦の三月でした。まだ雪の残るこの季節の移動は老人にとって容易ではなかったはずです。尾崎重誉の祖母は、宮内に入ってまもなく亡くなります。兼続の母にとっては実家の兄嫁にあたる重誉の祖母は、「ほうらいいん蓬莱院でん殿」のほうみょう法名で現在のうえ上の寺、蓬莱院の開基となりました。

18.東源寺
 飯山以来尾崎の菩提寺である東源寺は、宮内から福島を経て、重誉の子しげゆき重雪の代に米沢に移り、今は米沢市北寺町にあります。直江の菩提寺である徳昌寺が、林泉寺とのいさか諍いに敗れて与板に戻ったのち後、直江の家臣団であるよいたしゅう与板衆によって、兼続とお船の位牌は東源寺に移され今に至っています。

19.善行寺、養善寺
その他、今は米沢にある浄土真宗の寺、ぜんぎょうじ善行寺、よう養ぜんじ善寺も尾崎とともに一時は宮内に移ってきた寺でした。

20.安部、嵐田屋敷(元和町割図)
 重誉は半年そこそこで宮内から福島に移り、その年の12月41歳で亡くなります。重誉の後を追って命を捧げた三名のじゅんし殉死者があったと伝えられています。短い期間の宮内滞在でしたが、尾崎の家臣の何人かはその後宮内にきょ居を構え、今に至る宮内の町のいしずえ礎を築くことになります。板垣作衛門、安部うまのすけ右馬助、嵐田左近といった人たちです。

21.瑞蓮記
板垣作衛門は重誉が家康に仕えて歴史に名を残した武者修行時代から常に行動を共にしてきました。板垣家に伝わる「ずいれんき瑞蓮記」は、尾崎とともに宮内に入った家臣名がしる記された貴重なもんしょ文書です。

22.安部右馬助碑
安部右馬助は長谷堂の戦いで名を挙げ、宮内の代官となります。宮内のみならず今の南陽市一帯の荒地開発や鉱山経営にも力を尽くしました。昭和のはじめには熊野大社の石段下に大きな顕彰碑が建てられました。

23.内原遠望
嵐田左近は優れた土木の手腕によって宮内の町割を成し遂げた後、安部右馬助とのかくしつ確執から命を落としたといわれ、その後嵐田家は宮内を見下ろすうちばら内原地区に入って土地を切り開き一族を成して今に至ります。

24.色部光長系図
 兼続の母の実家である尾崎家は宮内から福島城を守るために福島へと移り、以後宮沢城は廃城となります。そして慶長三年九月金山城主としてこの地を治めることになったのが、現在の村上市、越後平林城主だったいろべみつなが色部光長です。光長は、兼続の妹を妻にしていました。

25.金山地区
宮内から山形長谷堂へと向かう小滝街道の最初の集落のかねやま金山地区。かつてはかみやまごう神山郷とよばれていたのですが、伊達の時代のきんざん金山開発に伴ってかねやま金山というようになったと伝えられます。片岡地区から眺めるななさ七磋こやま古山の紅葉は絶景です。室町時代からのきゅうか旧家である高橋七兵衛家の伝えによると、松島、きさかた象潟、山寺など優れた景色の土地を探し求めてようやく落ち着いたのがこの土地だったということです。

26.平館、館山
荒神さまのおやしろ社がある地区はひらだて平館といいます。その東方にある高台はたてやま館山とよばれています。道路を挟んだ高台には「色部様のお堂」が在ったといわれ、今も石のほこら祠が残っています。置賜から村山へ通ずる交通のようしょう要衝であり、また鉱山守護の役割を担っていた金山城は、最上よしあき義光に対峙する最前線でもありました。直江兼続の義弟として色部光長は重要な役割を担わされることになります。

27.謙信公起請文
色部氏はがん桓む武へいし平氏ちちぶ秩父し氏の流れを汲み、上杉が台頭する以前から越後の北を守ってきた土豪、あがきたしゅう揚北衆のひとつでした。光長の祖父勝長の時代になって謙信公の信を得ることとなり、川中島の合戦に際しては上杉軍の勇将として大奮戦し、その武功をたた称える謙信公じきひつ直筆の「血染めの感状」や謙信公の血判が押されたきしょうもん起請文が今でも残っています。

28.色部長実
さらに父ながざね長実は景勝の家臣としてつか仕え、太閤検地に伴って秋田で起こったせん仙ぼく北一揆の鎮圧に大きな功績を挙げました。ぶんろく文禄がんねん元年の一五九二年、朝鮮出兵のさなか最中、四十歳で亡くなるのですが、やまい病がちの長実が亡くなる2年前に書いた、直江兼続に色部の将来を託す必死の思いのしょじょう書状が残っています。長実の死後、光長は兼続の妹を妻とすることになり、兼続の身内として、はたやじょう畑谷城攻め、長谷堂の戦い、さらには大阪の陣で活躍することになるのです。

29.「越国武鑑記」
 光長は越後から宮内へ保呂羽神社をうつ遷していますが、宮内に伝わる『えつこく越国ぶかんき武鑑記』には色部家と保呂羽神社の関わりの由来について、詳しく記されています。

30.秋田保呂羽堂
仙北一揆は上杉景勝、しろずきん白頭巾の戦国武将大谷よしつぐ吉継によって平定されます。そしてその後の処理を任されたのが光長の父長実でした。長実は、腹を切る覚悟で人質にとっていた武士の妻子たちを解放します。長実はそのことで土地民の信頼を得、帰国の際、かねて祈願をしていたこの土地の神様保呂羽権現の御神体をお預かりすることになるのです。一生の大事として取り組んだこの仙北での処理、その真心が大切な土地の御神体を渡されるまでに土地の人々の心をとらえたのでした。『越国武鑑記』は、反抗勢力をも納得させつつ成し遂げた色部長実による仙北の平定を、豊臣秀吉による天下統一の象徴的出来事として最後にとりあげ、締めくくっています。

31.新潟保呂羽堂
今の新潟県村上市の越後平林、ここは色部氏が370年にわたって治めた土地でした。今も保呂羽権現を祀る立派なお堂があり地元の人が「おほろさま」とよんで大切にお守りしています。お堂への上り口には、昭和52年に建てられた「色部公追念碑」があります。色部の殿様は土地を離れて四百年を経てもなお慕われつづけているのです。

32.色部又四郎
 関が原のせんえき戦役を経て上杉藩百二十万石から三十万石へのげんぽう減封後、光長は金山から米沢窪田に移り、以来色部家は上杉家藩家老職として藩の重責を担いつづけます。「忠臣蔵」で吉良邸討ち入りの際に、実の父きら吉良こうずけの上野すけ介を助けるために出兵しようとする主君上杉綱憲を押しとどめた江戸家老色部安長、通称又四郎は光長の孫でした。

33. 色部ながとのかみ長門守ひさなが久長
最後の家老となる色部ながとのかみ長門守ひさなが久長は、ぼしん戊辰の役において新潟警備の総督として600名の兵を率いて奮戦、しかし被害の拡大を抑え事態を収拾するためわず僅か数名の兵を引き連れ新政府軍の本拠地に決死の斬り込みを行いかっぷく割腹を遂げるのです。新潟の町の戦火の拡大が抑えられたのは久長の的確な判断によるとして、新潟の人々によって昭和七年久長絶命の地に色部ながと長門くん君つい追ねんひ念碑がこんりゅう建立されました。一方米沢藩は、すでに亡くなっている色部久長一身に戦犯としての責めを負わせることで、ひとりの処刑者も出さずに済んだのでした。ひとり汚名をこうむ被って米沢藩を救った功績をたた称え昭和三十八年、色部長門君追念碑が米沢上杉記念館敷地内に建てられました。

34.宮内保呂羽神社、窪田保呂羽堂
米沢市窪田にある色部家の菩提寺せんげんじ千眼寺の保呂羽堂は、毎年十二月四日の裸餅つきで広く知られますが、宮内熊野大社にも保呂羽神社がまっしゃ末社として残っています。また、金山のてらしみず寺清水というところに、色部氏の叔母という人が尼寺を建てて永住したという伝えがあるとのことです。 しかし色部氏が宮内に残した事蹟の伝えは決して多くはありません。まだまだ眠ったままで掘り起こされるのを待っている史実があるかもしれません。

35.天地人のぼり
直江兼続にとっていわば身内とも言える尾崎氏と色部氏についてみてきました。尾崎氏も色部氏も宮内に在ったのは今から400年も昔のことです。大河ドラマ「天地人」は、私達の足元の400年前の歴史に光を当ててくれることになりました。

36.直江兼続像
日本の歴史のど真ん中を正論をもって駆け抜けた直江兼続公、その兼続公の母親の実家が信州飯山から宮内に来た尾崎家であり、その兼続公の妹を妻にしていたのが金山城主色部光長だった。宮内の町はそうした武将達とのかかわりの中で今のいしずえ礎が形づくられた・・・そう知っただけで自分のふるさとが誇らしく思え、また日本の歴史が身近に感じられてきます。直江兼続という人は、400年を経た今、大きな歴史の流れの中に、大きな世界の広がりの中に、時間を超え、空間を超えて、みんなつながった中のひとりとして今の私たちがあることに、気づかせてくれているのかもしれません。

37.愛

38.愛の説明

39.終

   *   *   *   *   *

数日前、南魚沼市の雲洞庵でボランティアガイドをしておられる方から電話があった。「南陽天地人絵巻」のチラシを送っていただけないかということだった。今月末に飯山市から団体が来られるのでその方々にお渡ししたいとのこと。うれしい限り。兼続公の母親の話になって、南魚沼では尾崎の出であることをみんな知っているとの事。花ヶ前さんの断定によってすっかり定着したらしい。それに比べるとこっちはまだまだ。昨日「大河ドラマ『天地人』山形県推進協議会」で作った「山形県観光ガイド おもてなしブック」というのが届いたのだが、このことについての言及はまったくないのが残念。その意味でも、このスライドをなんとか販売軌道に乗せねばならない。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。