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「損得の視点」を超えるもの [副島隆彦]

1年ほど前、副島氏のサイトhttp://soejima.to/の「気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板」に書かせていただいたことがある。かなりの部分、これまでこのブログで書いてきたことと重複するけれども、このテーマはいつも頭にあることなので、前回副島氏の発言に言及したこの機会に転載しておきます。


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[4001]損得の視点 投稿者:落合投稿日:2005/03/16(Wed) 17:34:33

 フジ/ホリエモン騒動で世間は騒がしいですが、これはメディアが絡んでいるから当のメディアが騒いでいるだけで、数年すれば「そんなこともあったけな」レベルの話。外資乗っ取りと騒がれたマツダとか日産の話を今でもやってる人なんていないのと同じ。今回のもある企業の株を誰かが買うというだけ。 また「拮抗する勢力を持つ2大株主が対立する前代未聞の事態」などと言ってますが、前代未聞なんていうのは、世間知らずすぎ。その辺の同族企業では日常茶飯事です。それが人間の営み。たいていどっちかが少し高めに株を買い取って終わるか、従業員を引き連れて新会社作るとかの結末。 いずれにしろこの騒動にあまり熱くなると後でカッコ悪いかもです。
 ところで「レシオの論理」は昔からよく言う「損得で考える」に当てはまりそうです。物事の判断基準は、下のほうのレベルから、快・不快(好き・嫌い)、損・得、正・誤、善・悪、正義・不正義、宗教的善・罪悪といったように分けて考えられますが、この分類法に従うと「レシオの論理」は損・得にぴったりと当てはまりそうです。 人は文章を書いたり演説をぶったりするときは、ほとんどの場合、正・誤か正義・不正義あたりを判断基準にして論を立てます。でも実際の行動は損・得で動くことがほとんどです。人の文を読んだり話を聞くときや、その人の行動をみるとき、「判断基準としてどれを使ってるのかな」と一呼吸おいて考える癖をつけるのもいいかもしれません。 「外資、ハゲタカファンドは絶対阻止すべき! 真の愛国者よ集まれ!」といいながら、損得の論理でハゲタカファンドを買って高利回りを祈るのが人間です。誰だって自分の財産貯金がなくなるのは大ごとです。追い詰められれば(=損をしそうになれば)、人は何でもやります。ファンドを買う人を責めることはできません。こうしてファンドにお金がどんどん集まり、よりハゲタカが影響力を持つようになる。なんだか合成の誤謬的ですがこれが現実です。 正誤論や正義不正義論も大切ですが、個人の行動レベルでは損得(=レシオの論理)で動かないと、気がついたときはまた自分だけ取り残されて(=自分だけ損をして)悔しい思いをします。頭でっかちな人、正義感が強いといわれる人というのは、正誤論や正義不正義論で言行一致してしまっている人たちです。そして「他人も言行一致しているはず」と思い込んで先読みに失敗することが多いでしょう。ちなみに副島先生は必ずしも言行一致はさせていないはずです。
 ところで初めのフジ/ホリエモンの話に戻ると、事態が進展してメディアが外資だか訳のわからないグループの手に落ちることを想像すると「不快」かもしれません。でも実際にそうなっても損はしないし、誤りだとも、悪いことだとも、不正義だとも思わないでしょう。そのうち初めに感じた不快感も忘れてしまうでしょう。そして「何であの時熱くなってたんだっけ?」と思うでしょう。というよりすっかり忘れるでしょう。それが数年後です。数年前の「不良債権問題」に熱くなった人たちがどこかに行ってしまったのと同じです。(いまどき不良債権問題を持ち出して一席ぶつとさめた目で見られる(=損をする)からしない。)

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[4012][4001]損得の視点 (落合さん)への異和 投稿者:めい 投稿日:2005/03/18(Fri) 21:35:25

落合さんの<[4001]損得の視点>を読んで感じるところがありましたので初めて書かせていただくことにしました。

(引用はじめ)

 「正誤論や正義不正義論も大切ですが、個人の行動レベルでは損得(=レシオの論理)で動かないと、気がついたときはまた自分だけ取り残されて(=自分だけ損をして)悔しい思いをします。頭でっかちな人、正義感が強いといわれる人というのは、正誤論や正義不正義論で言行一致してしまっている人たちです。そして「他人も言行一致しているはず」と思い込んで先読みに失敗することが多いでしょう。

(引用終わり)

  たしかにそうなんだと思わされつつ、言うにいわれぬこの異和感はなんだろうと考えていました。その答えはきっと、人間の行動というのは決して「個人レベル」のものではなく、人と人とのつながりの中でこそのものであり、そう考えるならば、個人レベルの損得勘定は二義的にすぎない。ほんとうに大事なのは人と人とのつながりの中で生まれるいわば「共感の体系」とでも言えるものなのではないかと考えるのです。 昨年来、雲井龍雄(1844-1870)という人に入れ込んでいます。きっかけは村上一郎氏の文章でした。

(引用はじめ)

 雲井龍雄は、漢詩というものがもう日本の青少年教育から追放されてしまった今日の若者たちには、縁遠い人となっている。しかし、それが世の中の進歩、教育の発展であるとはわたしにはまったく考えられない。わたしは心から、この忘却、この抹殺を、雲井龍雄の渺たる一身をこの世から消し去った明治社会の酷薄以上に罪ふかいものと考える。これは日本の万世に伝うべき詩心を、残忍に葬ってしまう教育の頽廃、文化の堕落の一つのあらわれであると信ずるのだ。雲井龍雄は、藤田東湖や頼山陽とともに、今日日本の近代詩史の序曲の上に復活せねばならぬ大事な一人である。わたしはこれらの人によって日本の詩の近代は用意され開始されたのだと信じている。
 詩の詩たるゆえんは、期するところのない魂魄の躍動にある。その意味において、当今功利の文人が、ためにするところある文学のことごとくは、雲井龍雄の詩心の前に、ほとんど顔色ない。そしてその詩心は、反逆不屈の一生と一体である。ここに日本東国の志硬い青年のおぐらくも勁い情念の一典型が塑像のごとく立っている観がある。その沈冥鬱屈の情を、今日の青少年は知らねばならぬ。(村上一郎『雲井龍雄の詩魂と反骨』 「ドキュメント日本人3 反逆者」学藝書林 昭43 所収)

(引用終わり)

昨年暮、仲間と共に雲井龍雄についての講演会を開催しました。雲井龍雄といってもなじみのない方が多いかと思いますので、地元紙に書いた報告記事を転載しておきます。 (既出「雲井龍雄のこと」 http://blog.so-net.ne.jp/oshosina/2006-03-29)

(転載はじめ)

岡田幹彦先生講演会 「詩魂、甦れ!―雲井龍雄伝」  

 このほど米沢市の置賜総合文化センターで、米沢が生んだ幕末の志士雲井龍雄についての講演会が百名を越す聴衆を集めて開催された。主催したのは南陽市宮内の「置賜歴史を語る会」(会長斉藤喜一氏)。「置賜歴史を語る会」は三年前に結成され、在野の歴史研究家岡田幹彦氏を招き、これまで上杉鷹山公、西郷隆盛についての講演会を南陽市宮内を会場に開催してきた。このたびの講演会は、二年前特に岡田氏に願って実現したもの。演題は「詩魂、甦れ!―雲井龍雄伝」。
 主催事務局によると、今回雲井龍雄を取り上げた意図を「アメリカに付くが得策との判断からのなし崩し的自衛隊イラク派遣に象徴されるような、大義も何もない経済最優先の現代日本の淵源を探ると明治維新にたどりつく。近代日本の出発点である明治維新について再点検する時期に来ている。『義』を貫いたがゆえに明治政府によってさらし首にされた雲井龍雄を取り上げることで、明治維新が切り捨ててしまった大切なものに気づきたい。」と語る。講演は、岡田氏が用意した詳細なレジュメをもとに雲井龍雄の生涯について語られた。龍雄は弘化元年(一八四四)米沢藩士中島摠右衛門の次男として袋町(現松が岬二丁目)に生れ、十八歳のとき小島家の養子となって小島龍三郎と名乗った。雲井龍雄の名は二十五歳頃からのもの。
 生来正直で親思い、飾り気なく負けず嫌いでいつも群童を率いていた。眠くなると棍棒で頭を叩きながら勉強に励んだという。岡田氏は龍雄を、吉田松陰と高杉晋作と足して二で割ったような人物と評する。藩校興譲館の蔵書三千冊を読破したと伝えられるが、吉田松陰の生涯読書は六百冊と言われていることから見ても尋常ではない。ことに知行合一を説く陽明学に惹かれた。慶応元年(一八六五)江戸に出て安井息軒の三計塾に入門するやたちまち頭角を現し、塾頭となる。全国から優秀な人材が集まった三計塾での交友が生涯の行動の基盤となった。
 明治維新最大の鍵は、反目しあっていた薩長がなぜ同盟するに至ったかにある。通説として坂本竜馬が仲介したことになっているが、近年はその背景にグラバーら兵器導入を企図する外国勢力の暗躍があったことが指摘されるようになってきた。龍雄はその中にあって、吉田松陰以来の長州の良心に薩摩の不義を訴え、薩長離間を図ろうとした。長州軍先鋒を務める三計塾同門の親友時山直八宛てに送った、薩長西軍に抗する奥羽越列藩同盟の大義表明ともいえる龍雄の「討薩檄」は古今檄文中の白眉とされる。「薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。・・・・・是に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此義挙を唱う。」 しかし龍雄の意図に反して米沢藩は同盟を離脱、その後まもなく他の奥羽越列藩もことごとく降伏、奥羽戦争は終結することになる。
 龍雄は戦争責任者としてしばらく米沢で謹慎の身となるが、その人望と影響力の大きさから新政府の集議院寄宿生(議員)に登用される。しかし志に反する場に留まることを潔しとせず憤然辞職。 その後新政府に不満を持ちかつ生活にも困窮するかつての同志、旧盟の者のための「帰順部局点検所」を設置。その下には八千人が集まったという。しかしこのことが反政府挙兵の企みと解されるところとなり、米沢へ護送蟄居。三ヵ月後には逮捕となって東京への檻送となる。そして明治三年十二月二十八日、明治政府によって斬首、首は小塚原に晒された。二十七歳だった。龍雄への厳しい処断には不満層に対する見せしめの意味もあったのである。
講演終了後、講師と参加者間の意見交換が行われた。その中で、米沢には雲井龍雄をタブー視する風潮がいまだにあるのではとの指摘がなされた。しかしその指摘はむしろ日本全体の風潮と言った方が当たっているのかもしれない。今後雲井龍雄再評価から明治維新見直しにつなげることができるかどうか、明治以降「白河以北一山百文」と言われてきた東北復権への期待のかかる講演会となった。

(転載終わり)

この時点では大づかみでしかなかった雲井龍雄像でしたが、その後あれこれ龍雄関連の本を漁って読むごとにどんどんはまり込んでしまっています。いったいなぜ雲井龍雄に惹かれるのか。 ここ2ヶ月ほど、ネットで知り合った雲井ファンの女性とメールのやりとりをしています。彼女がつぎのように書いてきました。

>西郷や大久保といった薩長の主たる者達にとって戊辰の戦争で最も手に入れたかったものが「正義」だったのではないでしょうか。
>彼らにとって「正義」、それは誰にも文句が言えないという事。
>そして彼らのまやかしの「正義」を早くから見抜いていたのが雲井さんを初め、三計塾の方達だったと思います。

安井一門の人たちがいちばん拠り所にしていたのはなんだったのか。安井息軒の肖像画http://www.miyazaki-catv.ne.jp/~kiyokan/rekishi/img/sokken_1.jpgから伝わってくる彼の人柄を思うと、雲井龍雄が「この人にならとことんついていってもいい」と思ったであろうその思いがよくわかる気がするのです。その安井息軒という人を介してかもし出されていた共感の世界、それこそがかけがえのない、いわば「真実」というにふさわしいものだったのではなかろうか。それを完膚なきまでにずたずたにしてしまったのが、戊辰の激動、そしてそれ以後の明治政府確立のプロセスだった。雲井龍雄にひかれるのは、決して「正義漢」としての彼というようなものではなく、安井息軒という師を通してつくられていた共感の体系の中でとことんそれを信じて生き貫いていたところにあるように思えてくるようになっています。とすると、明治政府がふみにじったのはそこのところということになりそうです。日本の近代はそうして出発したのです。そして今の日本です。 損得勘定に発する行動も、正義感に駆られた行動も個人レベルの問題です。しかし、人間の行動を根底で規定しているのは共感の世界です。(メルロ-・ポンティのいう「相互主観性」、あるいは吉本隆明の「関係の絶対性」にも通じると思います。)落合さんへの異和は、デカルト的自我を出発点とした近代への異和でもあります。 あれこれ書いたわりには言葉足らずのような気がしますが、ご容赦ください。

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[4014]言葉足らずを補います 投稿者:めい 投稿日:2005/03/21(Mon) 16:26:41

言葉足らずのためか、議論の流れを断ち切ったようで申しわけなく思っています。私が言おうとしていたことが思いつきでなく、私なりのプロセスがあってのことだということに後で気づき、以前ある掲示板に書いた文章を見つけ出しました。多少手を加えて転載してみます。

(転載はじめ)

 そもそも人生においてとどのつまり何を求めて生きているかと言えば、「心の安定」ということなのではないでしょうか。金や地位や名誉もそのための手段に過ぎないのです。としたら、教育も本来そのことをきちんと視野に置くべきです。私は今の教育は原理的に間違っていると思います。  デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」、この「思うわれ」を窮極の原理として近代合理主義思想は出発しました。「思うわれ」は、思うかぎりにおいて「だれが何を思ってもいい」という意味で、自由でありまた平等です。ところが、それを現に身体をもって生きている人間にまで引き延ばして適用してしまったところに、近代合理主義の誤りがあります。人間は、まず自分が勝手に考え始める前に、親兄弟をはじめとするいろんな人たちと一緒に生きているのです。それがあってはじめて、自分で考えるようにもなれるのです。事実として、ともに生きている世界があって自分があるのです。その逆ではありません。  本来、「自由」に対置する言葉は、「束縛」ではなく「秩序」です。「平等」に対しては「差別」ではなく「分度分限」といういい言葉があります。世の中に合った自由と秩序のバランスの取り方、平等と分度分限のバランスの取り方から、「倫理」の問題は生まれます。
 ところが、秩序よりも何よりも人権を第一義とする教科書を見るかぎりでの今の教育では、倫理の問題も何も生じようがないのです。今の教育は、原理的に共通の規範を拒否していると言えるかもしれません。精神の安定は、基本的には周囲の人との共通理解の上に立って生きていることでもたらされるはずです。今の教育はそのことをはじめから否定しているのです。 今の教育では、まじめに勉強すればするほど、自分の住む国がいやになり、世の中に対して反抗的になり、世の中のしきたりなどどうでもいいことのように思えるようになり、年寄りを軽んじて平気な人間になってしまっています。「何のために学ぶのか」の問いかけに「自分のため」としか答えようがない。「そんなら別に勉強なんかしなくても…」に返す言葉がない。道義の感覚はすっかり色あせ、経済的利害とそのときどきの欲望のみが行動の基準、ただただ声の大きいものが、力の強いものがわが物顔に振る舞い、裏では人を欺くはかりごとがうごめくような世の中、これでは精神の安定を得られるはずはありません。今の教育は、人間が本来求めるものから逆行しているのです。
 デカルトの「思うわれ」というのは、秩序が抑圧として捉えられるようになって「人権」思想が生まれたことと歩調を合わせるかのように、身体をもって空間的・時間的に制約されて生きている自分が意識されるようになるにともなって、そうした制約から一切自由な主体として構想されることになったと考えることができます。  
「人権」と「思うわれ」は軌を一にしていると考えるのですが、それは「人権」を言い出すとだれもそれには逆らえないのと似て、「思うわれ」を基礎にすると、世の中の存在すべてが説明できるように思えてしまう。そしてそのゆきつくところは、イギリスのバークレーのように「自分が知覚しないものは存在しない」となってしまう。もう完全な蛸壺状態。  それにたいして、そのおかしさを指摘し、理屈はいい、まず事実そのものに立ち返ってそこから考えようとしたのがフッサールに始まる現象学の流れです。
 フッサールの流れを汲むメルロ―・ポンティは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」に対して、「われなし能う、ゆえにわれあり」と言います。私はこれはすごい言葉だと常々思っているのですが、まだ教科書に載るまでは普及していないようです。教育もデカルト的主知主義(「思うわれ」を主体として、知ることが基本)では全くの片手落ちで、「できるようになることが基本」を原理にしなければならないと思うのです。教育の原理見直しが必要であるゆえんです。
 メルロ―・ポンティは、「私が思う以前に、先ずもってみんなと共に生きている」と言います。そこから見れば、「思うわれ」なんて後からの理屈づけにすぎません。ところが今の世の中では、(きっと教育の結果)「思うわれ」の方が本来の自分であって、「現に生きている自分」は仮の姿のように思い込んでしまっているのではないでしょうか。みんな蛸壺の中にいるときがいちばん安心できるように思いこんでしまっているのです。
 「秩序」について言うと、蛸壺に入り込んでしまうと「秩序」なんてさもうっとうしいように思えてしまうけど、「先ずもってみんなと生きている」世界では、意識はしなくてもちゃんと「秩序」の中で生きているということが言えるのではないでしょうか。別にどこかから探し出してきたり、新たに作り出すこともないのです。 そこで、今いったい自分はどういう秩序の中で生きているのかを、あらためて見つめなおす必要があるのではないかと思うのです。  私もメルロー・ポンティとのおつきあいは30年以上も前にさかのぼるので、昔のメモを引っ張り出したら、「意識とは、原初的には、『われ惟うje pense que(I think that)』ではなく、『われ能うje peux(I can)』である。」とありました。彼の主著「知覚の現象学」の「身体論」の中の言葉です。そして日本語版の注釈に「この術語は、フッサールの未刊書のなかでしばしば用いられている。」とありました。メルロー・ポンティのオリジナルではないようです。いつの間にか「われなし能う、ゆえにわれあり」の言葉で私なりに理解していましたが、意訳として間違ってはいないと思うのでご了承ください。
 また、「思うわれ」を主体として、知ることが基本とする考え方が、知識それ自体だけで第一義的に価値があるように思い込んでしまう、頭でっかちを生み出しているのではないかと思えるのです。それに対して、「できること」とは「身につけること」と考えてはどうでしょうか。それにはもちろん、「知識を身につける」ということも含まれます。その時の「知識」とは、いつも生きている世界とのかかわりをもった知識であるはずです。メルロー・ポンティは、先の言葉の後、「意識とは、(みんなと共に世界の中で生きている)身体を媒介にして事物へと向かう存在である」と言っています。まずそれが初源であり、第一義であると言うのです。蛸壺の中が初源ではないのです。
「あー、この感覚なんだ」と気づかせてくれた文章があります。川喜田二郎著『「野生の復興」デカルト的合理主義から全人的創造へ』(祥伝社 平成七年)の終章です。

(引用はじめ)

・・・・・管理社会の中で育った個人主義者は、他人を押しのけてでも自分が上に立ちたいという権力欲の虜になりがちである。親子・夫婦・友人たちとの、もともと持ち合わせた素直な人間らしさよりも、この権力欲を最優先する。そうして、それがもともとの偽らない人間性だと信じ込みたがる。・・・・・文明の毒気に当てられてもけっして崩れない、鍛えられて逞しい素朴人を、いかにして育て、保護するか・・・・・・・・(自分にとって未知なひと仕事を、白覚的に達成することによって、人の心は)この世が瑞々しく見えてくる。青春が甦る。 馥郁たる香りがどこかから匂い、万物に愛と不思議を感ずる。利己心も利他心も、それぞれが大切な大自然からの授かりものと感ずる。どんなに状況が変わっても、その状況の中で主人公でいられる。しかも「私は山川草木のひとつである」という、言いしれぬ謙虚さを覚える。 自分のことを、ごく当たり前の人間だと感ずる。たとえば、死ぬことはひじょうに怖い。なぜなら、もともとそう怖れるようにこの世に送り出されたからである。ただ、死ぬのは怖くても、そのくせあまり生命に執着していない。 
それはどうやら、自分が死んでも、私を包んでいた大きな伝統体は、まだまだ生き続けていてくれるからである。 なんと、これが安心立命というものに近いのかもしれない。 ただ、私が今ハッキリ言えることは、誰もがあのヘゲモニズム(常に他より上を目指してやまない覇権主義)の地獄から抜け出し、それぞれに安心立命を得た方がよいということである。
 このような内面体験の一つの大きな特色は、もはや「自我」という固い観念の穀を内側から叩き破って、広い世界の自由で新鮮な空気を深々と呼吸していることなのである。 「自我」ではなく、知・情・意いずれをも備え、肉体そのものである「己れ」として生きている。
 しかもその「己れ」は、そう自覚した方がよい場面でだけ存在するのであって、それが必要でなくなったら、いつでも「己れ」を退場させてしまう。つまり「己れ」は実体ではないのであって、方便として存在するだけなのである。
 眠くなったら、「己れ」などなくなってしまう。仕事に打ち込んだら無我の境地になる。彼女に首ったけになったら、我を忘れる。何かの使命を感じたら、献身をも恐れない。こういったことは、誰でもよく知っているではないか。 ならば、それを正直に受け容れたほうがよいのではないか。        
 文明は不幸なことに、方便としてしか存在しない「自我」という観念を、何か固定した実体のように錯覚させてしまった。そうして、それによって、一方では「自我」の消滅におぴえつつ、他方では留まることをしらぬヘゲモニズムという奇形児を生んでしまったのではないか。 
 <( )は引用者>

(引用おわり) 

 何年か前、「恐怖の法則」というテレビ番組がありました。「子供がままごと遊びをすると標準語になる法則」とか「手から血を出すといたわってもらえるが鼻から出すと笑われる法則」といった視聴者や出演者から出された仮説を番組で検証し、司会者が法則として認定するかどうか決める番組です。その中で、興味深い法則が認定されたことがありました。「ハンカチを片手で渡すと受け取り方も片手で受け取り、両手で渡すと両手で受け取る法則」というものです。二十七人に実験して二十四人がその通りだったのです。この「ハンカチ渡しの法則」は、私たちに大切なことを教えてくれています。「考える私」以前の行動についてです。
 私たちは、少なくとも行動のレベルでは、まず「私」であるまえに相手の気持ちになって、相手と共に生きているということです。いちいち、心の中の「私」が考えて行動しているわけではないのです。私の気持ちと相手の気持ちはまるっきり別々ではなくて溶け合っているのです。まだ「私」の意識が育っていない赤ちゃんがそうであるように。 「ハンカチ渡しの法則」にあるのはいわば「共感」の体験のいちばん単純なすがたです。私は、人間の意識の源はこの「共感」の体験にあると思います。デカルトが言うような、蛸壺に入り込んだところでの「思うわれ」が意識の源ではないのです。この「共感」の質を高めてゆくことで、それは「魂のふれあい」というところまでゆくはずです。「うちひしがれた子供」にとって先ず何より必要なのは、この「共感」の体験だと思うのですがどうでしょうか。「自分は自分」と割り切った途端、人間にとっていちばん基礎にある、せっかくの「共感」の体験は相対化され、冷めたうけとめ方しかできなくなってしまいます。ともすると個人主義は、人間にとっていちばん大切なせっかくの「共感」の体験を、色あせた副産物に過ぎないもののようにみなしてしまう結果を生み出しているのではないでしょうか。
 「秩序」とは、この「共感」の機会をより多く生み出すためにあるように思えます。「基本的人権の尊重」を言いつつ「反秩序」感覚を育てる教育は、人間の初源にある「共感」の機会を奪い取る教育です。その結果の「動物以下」です。

(転載おわり)

 「・・・でありたい」「・・・であるべき」といった、個人レベルでの「価値」「規範」を持ち出すまえに、「共感」の体験を通した「自己」の世界をひろげてゆくことで、以前よりこの板で議論されてきたのとは違った視点から「正義」の問題も考えることができるのではないでしょうか。 議論をより一般化するために、30年以上前ですが、学生時代にメルロ-・ポンティに拠って「行動」概念について書いた文章がありますので転載しておきます。

(転載はじめ)

≪従来の二元論を超える概念としての〈行動〉概念≫

 われわれは即自存在の体系に還元されてしまうような客観的な対象物の一つとして、全く世界の中に組み込まれてしまっているのでも、また純粋な対自存在、すなわち世界への内属から完全に解き放たれた純粋意識に還元されるものでもない。なぜなら、私が即自の体系として、世界のうちにすっぽり入り込んだままであるとしたら、私にとって世界は、それがあるようにしかなく、したがって世界について思惟をめぐらすこともできないことになるであろうし、当然その場合、他者が私の外で思惟していると考えることは不可能であろう。また、私が純粋意識としてあるとすれば、私の世界での行動の一切が私にとって明瞭であり、また世界も全て私の意識のうちに収めうるということになるであろうが、事実としては、自分がなぜそうしたかわからない行動をしているのは常に経験していることであり、またかりに、私が世界の全てを手中にしたと思えたとしても、他者が、私が手中にしたと思っている世界の果てでやはりその他者なりの世界を作り上げているということの説明が付かなくなる。いずれの場合も、他者を他者として問題にできないのである。つまり、いずれにおいても他者の問題が躓きの石なのである。  それに対してメルロー・ボンティは、人間存在を、生きられた経験において、〈世界内存在〉【註1】としての地平で考えることで、人間のあるがままの経験を哲学の中心に呼び戻し、そのことによってまた、他者の問題についても、それがわれわれに現れるあるがままのかたちで問題にしようとしたのである。
 デカルト以来の身体と精神の二元論、すなわち、存在の系列を即自存在と対自存在とに分け、それらを相容れない相互の独立したものと考える立場にあっては、他者は常にパラドキシカルな存在であった。つまり他者は、私にとっては他の客体と同様即自的なものでありながら、その他者自身にとっては対自的に存在しているのである。そこには、〈私〉とは私によってしか近づき得ないものでありながら、他者の存在を認めようとする限り、私によっては近づき得ない別の(私)があることを認めざるを得ないという矛盾が存在することになる。この矛盾は、私が他者を私ではない私として、心理作用を持つものとして知覚するのは、私が持っているものと同じ他者の身体から、観念連合とか判断とかによって、推測することによってのみ可能であるというように説明されてきた。【註2】  しかし、あらためてわれわれの経験を反省してみるまでもなく、また第一節でも明らかにしたように、他者は、私とは別の、そして私と同じような(私)として、私の知覚と同時にすでにそこにあるのであって、観念連合とか判断とかの作用がそこではたらいていると考えるのは、説明づけのための理屈にすぎない。ではここのところをメルロー・ボンティはどう説明しているかみてみよう。
《われわれは、われわれが個人的世界のうちに挿入されているものとして、展望perspectiveと視点poinnt de vueとを概念せねばならない。そして知覚は、真なる客体を構成するものとしてではなく、われわれがものにくっついていることnotre inhérence aux choses、として概念せねばならない。意識は意識自身のうちに、感覚領野と一切の諸領野の領野としての世界を伴って初源的過去の不透明さを見出す。もし私がそうした私の意識の、身体や世界への付随を経験しているとすれば、他者の知覚や複数の意識ということは、もはや困難さをあらわすことはない。もし知覚している私に対して、知覚している主体が、世界に関しての原初的結合を備えてあらわれており、その背後に、私にとってそれなしではほかの何ものも存在し得ないあの身体的なものを引きずっているとすれば、どうして私が知覚している他者の身体もまた、意識によって住まわれていないことがあろうか。私の意識が身体というものを持っているならば、どうして他者の身体が意識を持っていないということがあろうか。》(Maurice Merleau-Ponty‘Phènomènologie de la perception’1945 [以下P.pと略す] p.403)
 このように、意識と共にある身体、身体と共にある意識と考えることによって浮かび上がってくるのが(行動)の概念である。 《われわれは、目に見える身体の上に、身体によって素描され、身体によってあらわせしめられるが、しかし実際には、身体に押し込められているのではない(行動)を取り戻さねばならない。》(P.p.p.403)
 この(行動)の概念は、対自存在に還元することも、すなわち精神に還元することも、即自存在、すなわち身体に還元することもできない、われわれの生きられた世界に即してある第三のジャンルともいうべきものである。そしてこれを、われわれにとって事実としてあるがゆえに、根源的であると見なすとすれば、意識についても、《構成する意識や純粋な対自存在としてではなく、行動の主体として、世界内存在あるいは実存existenceとして》(P.p.p.404)概念せねばならないことになる。
 メルロー・ボンティはフッサールに拠りながら、次のように言っている。 《意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。》(P.p.p.160)
 一方、身体についても、即自存在と見なされる客体としてではなく、《私が住み着いているもの》(P.p.p.404)、《身体の意識が身体全体に浸透しており、身体のどの部分にも精神が拡散している》(P.p.p.90)、いわば、《主体的客体subjective Object》(“哲学者とその影”『シーニュ2』木田訳p.15 
 この語はフッサールによって用いられたものであるという)として概念せねばならないことになる。

【註1】〈世界内存在être au monde〉《人間は世界に属してあり、人間が自らを知るのは、世界の中にあればこそである。》(P.p.P.Ⅴ)《諸刺激からは相対的に独立して、われわれの世界のある種の接続性というものがあるわけで、これが世界内存在を(パブロフの条件反射説、あるいは行動主義が考えるような―引用者註)単なる反射の総和として扱うことを禁じているのだ。また同じく、われわれの意志的思考から相対的に独立して、実存衝動のエネルギーというものがあるわけで、これがまた世界内存在を一つの意識的な作用として扱うことを禁じているのである。世界内存在とは、(主体と対象とを分けて考えることのできない―引用者註)前客観的な視界であればこそ、あらゆる第三者的過程、res existensa(延長的)のあらゆる様相からも、また同じくあらゆるcogitatio(思惟)、あらゆる第一人称的認識からも区別されうるのであり、そうであればこそ、それは〈心的なもの psychiqu〉と〈生理的なもの physiologiqu〉との〈内在的な―引用者註〉接合を実現することもできるのである。》(P.p.p.95)

【註2】古典心理学(ゲシュタルト心理学以前の心理学)における他者の知覚《古典期のあらゆる心理学者たちの暗黙の相互了解を支えていた一点は次のことでした。つまり心理作用とか心的なものとは、当人にのみ与えられているものだということです。・・・・・そこから、他人の心理作用は、少なくともその現実存在そのものにおいては、私には全く接近できないものだという考えが帰結します。・・・・・私はそれを・・・・・私が目撃する一連の身体現象から仮定し、推測し得るだけだということです。》(“幼児の対人関係”『眼と精神』滝浦訳 p.129)

【註3】〈行動comportment〉《(即自と対自の)二つの秩序のうち、前者は、出来事が相互に外から強制し合う〈外的なもの〉の秩序として、物理学的思考にとって透明なものであり、後者は、出来事がつねに〈意図〉に依存する〈内的なもの〉の秩序として、反省にとって透明なものであるから、〈知性〉にとってはいずれも透明である。しかし、〈行動〉はそれが構造をもつものである限り、二つの秩序のいずれにも位置しない。》(『行動の構造』滝浦・木田訳 p.188)

【註4】〈実存existence〉《フッサールの独創性は、指向性の観念を超えたところにある。すなわち、それは、この観念を仕上げて、表象の指向性の下にもっと深い指向性を、他の人々が実存と名付けたものを発見したところにあるのだ。》(P.p.p.141脚注(4))
《実存とは他の諸事に還元できるような、あるいは他の諸事実(〈心的事実〉)のような一連の諸事実ではなく、それらの諸事実が交流するあいまいな環境、あるいは、それら諸事実の限界がぼやけてくる点、またそれら諸事実の共通の緯糸trameである。》(P.p.p.194)

(転載おわり)

ついでに、吉本隆明氏の「関係の絶対性」について、周さんという方がhttp://shomon.net/ryumei/yo2.htm#55kaで説明されていましたので引用させていただくことにします。

(引用はじめ)

関係の絶対性

 「人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とはなにか。もし人間の生存における矛盾を断ちきれないならばだ。」(「マチウ書試論3」1954~55年稿 「芸術的抵抗と挫折」1959.2未来社に収録された)
人間はどのようにも選択できる意志を持っている。だが、人間と人間との関係が強いる絶対性の前にはそれらの意志も相対的なものなのだ。だからある革命思想が正しいのかどうかというのはただこの、関係の絶対性という視点だけなのだ。
「共同社会における個々の人間の存在というものは、共同体自体と必ず逆立ちするということです。つまりそういう関係の仕方だけが、共同社会における個々の人間の存在というものを規定していく本質的な問題なのです。」(「新約的世界の倫理について」1968.11.9フェリス女学園講演 「信の構造Part2吉本隆明全キリスト教論集成」1988.12春秋社に収録)
一番近い関係との血で血を洗う関係。これは政治並びに革命の姿である。原始キリスト教とユダヤ教の相克、革共同両派の相克。言語国家心的現象への考察により、この関係の絶対性の構造を解き明かすのが吉本さんの姿である。

(引用おわり)

吉本氏の言う「関係の絶対性」はわかるようでわからなかったのですが、メルロ-・ポンティを通して、「われ」意識に先立つ意識の初源を指しているのかと納得したものでした。周さんは「世の中の構造」と理解されたようですが、私は意識レベルのこととして、「共感の体系」という言葉にしてみました。といっても、私はそこで止まってしまっているので、それ以上突っ込まれると困ります。ただ最近、「私権原理から共認原理への大転換」を掲げる「共認経済学」http://www.rui.jp/ruinet.html?t=100&o=10022&k=0というのがあるのを知りました。私の関心の方向と重なるのかなと思っているところです。「共認経済学」についてご意見お持ちの方お聞かせいただけたら幸甚です。

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[4017]訴えると言うこと。あるいは訴えられるということ。 投稿者:副島隆彦投稿日:2005/03/22(Tue) 13:23:11

副島隆彦です。
 「4014」のめい氏の、メルロ・ポンティやフッサールの考えを使った主張をどうもありがとう。大筋で分かります。ただし、ちょっと時代が古いですね。「フッサールからポンティへ」の議論は、70年代に、「日本の現代思想」として流行ったものです。「ハイデガーからサルトルへつながった経路」との対比で、玄人(くろうと)筋に受けた議論です。 「ソーカル問題」を経て、80年代の、フランス構造主義が全体としてアメリカの「簡潔に真実を書く」ソーカルという若い学者によって叩きのめされてからこっち、ヨーロッパは振るいません。アメリカに学問覇権がヨーロッパから完全に移ったわけではありませんが、(なぜなら、アメリカ行動科学 ビヘイビアラル・サイエンス革命は、1980年ごろ大失敗したからです。このことが公然と露呈したことは私の主著の『覇権アメ』の主調理論として書きました。)ヨーロッパは、その後、古色蒼然となってゆきました。これから先に新しいものが何か生まれるか、です。それが2010年代を作ってゆくでしょう。(以下略)

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[4020]コメント、ありがとうございます 投稿者:めい 投稿日:2005/03/23(Wed) 22:12:24
思いがけない副島先生からのコメント、ありがとうございました。あらためて、「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」を開いてみました。

(引用はじめ)

日本にもアメリカ心理学系の学者たちはたくさんいる。なぜか日本では、この心理学が「文学部心理学科」という、とんでもない学問制度分類になっていて、文学部に進んだ女子学生のうちの優秀な学生の一部が「私は人間の心理の研究をしたい」と勘違いし、わけのわからない「各種心理学」の教科書を何冊も読まされ、結局「人間の心理のことなど何もわからない」で卒業して、企業に入ったり学校の先生になったりするのである。(講談社α文庫版 p.155)

(引用おわり)

「心理学概論」の講義を聴いて「なんじゃこりゃ」と思ったのを思い出しました。
「ソーカル問題」についてhttp://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/Hori.htmlで概略を知ることができました。メルロ-・ポンティはおそらくその埒外だったのではないでしょうか。
フッサールからメルロ-・ポンティへの現象学の流れについては、吉本隆明氏の次の評価が正鵠を得ていると思います。
《「本質を直観しようとするなら、一つの具体的経験を考察し、それを頭の中で変容させ、それがあらゆる連関のもとで実際にどのように変容するかを想像することに努めればよいのであって、この変化を通じてそこに不変のままに止まるものがあれば、それこそ当該現象の本質をなすものなのです。(以下引用略)」(“人間の科学と現象学”『眼と精神』木田訳p.52)ここで言われている「そこに不変のまま止まるもの」あるいは「その対象そのものが消え去らないもの」が、けっして実在の対象、現実的なもの(物体)を意味してはおらず、実在的な対象の形式(関係)にほかならないことはたれの眼にもあきらかである。それとともに、対象を想像力に対して不変なものとしてきりとるときは、たとえ現象学が対象の本質と呼ぼうが呼ぶまいが本質ではなく、形式(関係)にほかならないこと、また、この方法によって実在と観念、身体と心、現象と本体、主体と世界といった二元的な錯綜からは逃れることができることもはっきりしている。》(吉本隆明“心的現象論―身体論(Ⅰ)”『試行』№30 p.144)
現象学は、実際は「本質」を問題にしたのでなく、「形式」を提示したにすぎないというわけです。メルロ-・ポンティとつきあってみての結論は「なーんだ、言われてみればあたりまえ、ということを言ってたんだ」ということでした。大学という場所は私にとってはどうもあたりまえの場所ではなく、そこでの洗脳を解くのにメルロ-・ポンティを必要としたといえるのかもしれません。 以来、私にとってメルロ-・ポンティは学生時代のある時期を費やした懐かしい人ではあっても、ほとんどそれっきり過去の人だったのですが、ネットで議論をするようになって、応援に駆り出したりするようになっていました。
副島先生の評価は「ちょっと時代が古いですね」とのことでしたが、わたしの見るところ、「玄人筋」だけにとどまるのでなく、まだまだこれから一般に知られてもよい人ではないかと思っています。「われなし能う、ゆえにわれあり」を哲学的(形式的?)に基礎づけた思想家として。
付け加えると、サルトルが、メルロ-・ポンティの追悼文「生きているメルロー・ポンテイ」(『シチュアシオンⅣ』人文書院所収)の中で次のように言っています。
《彼は間違いを犯したと思った瞬間に政治を棄てた。毅然として。しかし、有罪の身となって。彼はそれでも生きようとし、自閉した。》(平井訳 p.203)
《えらばねばならぬ瞬間が来たとき、彼は自己に忠実でありつづけ、統一が見失われてしまった後にも生き残らぬように自沈してしまった。》(同上 p.214)
《彼はニューヨークでエレベーターボーイになるというのだ。気の重くなる冗談だった。それは自殺の表現だったから。》(同上 p、201)
私には、決して冗談などではなく本気だったのだと思えました。ここにサルトルとの違いがあります。メルロー・ポンティという人格に備わった倫理性を見た気がしました。メルロ-・ポンティに残る業績があるとすれば、それ以降のメルロ-・ポンティなのではないかと思っています。

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備忘録的感覚で始めたこのブログですが、毎日何人かの方にお出でいただいているので何か書いておかねばと一年前のものを掘り出してきました。ここまでお読みいただいた方、ほんとうにありがとうございます。


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