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「つくる会」の限界? [新しい歴史教科書をつくる会]

西尾先生の日録http://nishiokanji.com/blog/2006/05/post_322.html#c3351で、たかしさんのコメントに対して西尾先生が応じられたのに始まり、それに私が口を挟んだことから、東埼玉人さん、布袋和尚さんと何回かのやりとりがありました。「つくる会」の限界のようなものに気づくことがありましたので転載させていただきます。

(転載はじめ)
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ある時期からつくる会が一部の人にとって、保守論壇の登竜門になってしまったことが問題の根源のように思います。
 つくる会の教科書の採択率をあげるには、官製談合に似た教科書採択の構造をうちやぶることが必要です。
 そのためには、何より教育委員会が地域住民の意思を反映したものになる必要があり、現に小学生の親でもある私自身に何ができるのかを今考えています。
 そういった実務的なことを議論できる場はどこにあるのでしょうか。

Posted by: たかし at 2006年05月18日 15:12
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たかし様

 教育委員会は残念ながら地域住民の意思ではなく、地域学校官僚、指導主事とか教育行政官たちの意思を反映したものでありつずけ、それを壊すことも、超えることもできないできました。

 文部科学省にもそこに力はまったく及びません。つくる会が立ち往生している原因はこれです。

 地域住民が騒ぎ立ててくださる以外に突破口はありそうもありません。

 「保守論壇の登竜門」はなるほどと思いましたが、なかば信じられません。

Posted by: 西尾幹二 at 2006年05月19日 00:01
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>教育委員会は残念ながら地域住民の意思ではなく、地域学校官僚、指導主事とか教育行政官たちの意思を反映したものでありつずけ、それを壊すことも、超えることもできないできました。

>文部科学省にもそこに力はまったく及びません。つくる会が立ち往生している原因はこれです。

西尾先生、そもそも教育委員会をターゲットにしてしまったことが失敗だった、というのが運動の現場にいたものとしての痛恨の反省だったのです。その方針を打ち出した本部にこのことをわかって欲しいというのが、これまで私がうるさく言いつづけてきたことでした。もっとも私には後戻りする力はもう残ってはいませんが。

Posted by: めい at 2006年05月19日 08:17
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めい 様
『そもそも教育委員会をターゲットにしてしまったことが失敗だった、というのが運動の現場にいたものとしての痛恨の反省だったのです。その方針を打ち出した本部にこのことをわかって欲しいというのが、これまで私がうるさく言いつづけてきたことでした。』(19日付貴方の投稿より)

 

 西尾幹二日録からのリンクで、貴方の上記と同じ主張を眼にしており、大変気になっておりました。私は、「あたらしい歴史教科書をつくる会」の運動にはかなり前から関心を寄せてはいましたが、会のシンポジウムに参加したのが3年ほど前、会員になって2年未満という新参者、そして採択実現の具体的な行動をしているわけでもない、という立場からは、現場でご苦労されている方々の行動や言われることを批評したり批判することには、ためらいを感じないわけではありませんが、西尾ブログへの投稿者の立場から、遠慮なく考えを述べさせて頂きます。

 結論から言えば、つくる会が教育委員会をターゲットにする方針を決めたことが間違いなのではなく、貴方のこの方針に対する理解が間違っているのであり、その方針に基づいて教育委員会に働きかけたとすれば、その行動方針・行動方法が間違っていたと考えられます。
 確か、貴方の「つくる会支部」は県議会その他に働きかける方針を決定し、順調に行動が滑り出したところに「つくる会本部」から教育委員会をターゲットにするという方針が提起され、そこで方向転換をした結果、その後の運動が混乱した、そういったことだったと思います。貴方の支部がどのような行動をとられたのか分かりませんので、具体的な誤り指摘することはできませんが、次の文章をご覧下さい。
 この文章は、貴方の上記の投稿から4時間半後の布袋和尚氏による投稿からの抜粋です。(全文は直接確かめてください。)

<抜粋>…私自身は、自分が住む地域(市)において、会員や協賛者の皆様と連携し、市の教育委員会にこの教科書を採択していただくために努力することが第一の役目であると心得て、十年一日の活動を続けています。/…数年前、保守が漸く市政を取り戻し、長かった左翼市政の残滓を洗い流しつつある状況で、左翼勢力に牛耳られた教育委員会や教育行政当局をこれから改革しなければならない厳しい現状にあります。そのような中で、教育長を除く2名の教育委員の味方を得ることを目標に、先ず、その任命権をもつ市長、市議、そして、それらの方々に影響力をもつ教育関係者、地域指導者等との信頼関係・人間関係を築くべく、努力を傾注…、三年間ほどで、地元選出の保守系都議、幾人かの市議、一部の校長、青年会議所の幹部等と云った方々と信頼関係を築き、また、地元選出の国会議員、市長、一部を除く市議、教育関係者、防衛協会長等の皆様方と人間関係を結ぶことができました。しかし道半ば…<以下略>

「教育委員会をターゲットにする」ということを、布袋和尚氏のように理解したならば、貴方の支部では、上記のような方向転換は、必要はなかったのではありませんか。少し、厳しい言い方かも知れませんが、運動がうまくいかなかった原因を「本部の責任」にするのは、お門違いと云うべきです。

『もっとも私には後戻りする力はもう残っていませんが。』などと仰らずに、今後の更なる奮闘を期待します。

 上記「本部の責任」を含め、めい様に対する批判を離れて、この続きとして述べたいことがありますが、日を改めて投稿したいと思います。

Posted by:東埼玉人 at 2006年05月20日 23:13
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東埼玉人様

今さら言ってどうなるものでもないと思いつつ、またつい書いてしまったものでした。ご注目いただいたことに感謝申し上げます。
当時県支部では週一回10数人の会合を開き行動を積み重ねていました。布袋和尚さんのおっしゃられたようなことはもとより最初の段階から取り組んでいたことでした。ただ、教育委員会をターゲットとするという明確な方針とともに議会への請願提出を行うことになりました。私が悔やまれてならないのは、何度も書いてきましたので繰り返しませんが、あの請願の文面をなぜわれわれなりの言葉で書かずに、本部から出されたものをそのまま出してしまったかということです。ずっと自分が軽率だったという思いでいたのですが、このたびの本部の混乱を見せつけられ、本部に問題はなかったのかどうか、当時会長であられた西尾先生におわかりいただきたくこの場で発言させていただいた次第でした。付け加えますと、当時の本部方針を県支部に徹底させる大きな役割を果たされたのは、会合の常連メンバーのひとり産経新聞の支局長でした。それが支局長個人の判断によるものであったのか、産経新聞本社の意向を受けたものだったのか、後になっての疑問の一つです。

Posted by: めい at 2006年05月21日 08:34
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めい様
 早速応答頂き、有難うございました。
 本部に問題があることは間違いありません。貴方のご苦労を思うと胸が痛みます。
 けれども、単にそれは「つくる会」内部の問題としてではなく、「広く、真正保守を目指す運動全体の政治的未熟さの問題として捉えていかないと解決できない」、と私は考えております。そのことを考えあぐねていたところ、西尾幹二日録の新展開を見て投稿に及んだ次第です。

Posted by: 東埼玉人 at 2006年05月21日 22:48
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めい 様
 つくる会の支部の幹部として、本部とも緊密な連携をおとりになりながら、大層熱心に御尽力になられた御様子、本当に御苦労様でございました。また、大きな挫折で深く御傷心の由、お察し致します。
 同じ会員でも、貴方は、本部に対しても真摯で、支部においても指導者のお立場にある「模範的」な会員であられたものと存じますが、私は、つくる会では「フテイ」の会員で(「不逞の輩」の「フテイ」です。HNは「ホテイ」ですが)、本部の方針とか支部の指示とかは、さほど気にしておりません。
 私は、自分の生き甲斐や興味の一つとして「公教育の正常化」に心を寄せ、その自己満足のために「つくる会」で活動しておりますので、つくる会は「ツール」のようなものであり、壊れてしまっては困るし、より使い勝手のよいものになってもらいたいので、そのために本部・支部に応分の御支援はさせていただくつもりではおりますが、本部から方針が打ち出され、支部から強力に御指示や御指導があったとしても、私自身や地域の同志達との日々の活動にとって役立つものは採って活用し、そうでないものは受け流すスタンスで対応したいと思っております。

 そして、日々の活動としての「教育委員二名獲得オペレーション」についても、これは、貴方も「最初の段階から取り組んだ」と仰る、誰でも思いつく実に尋常な方策ですが、しかし、気の遠くなるような根気の要る仕事でもあり、殆ど途中で中断・放棄されることになるでしょう。中国に「愚公山を移す」と云う故事がありますが、これは私の好きな話の一つで、この話を時々思い起こしてニンマリとしながら、一歩後退(今春も、肝胆相照らした校長が栄転して都内に去りました)二歩前進を繰り返しながら、次期採択戦に間に合えば善し、間に合わねばそれも致し方なし、と根気よく続けております。
 めい様におかれましても、本部なんぞあんまりお気になさらず、心機一転、元気に御活動を再開いただきたく

Posted by: 布袋和尚 at 2006年05月21日 14:25
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布袋和尚様

平成13年の9.11を境に情況は大きく変容しました。私にとっての「つくる会」もです。その辺の経緯については私のブログに「ターニングポイントとしての9.11」として3回に分けて書いておきましたのでよろしければご覧下さい。
http://blog.so-net.ne.jp/oshosina/2006-04-06
http://blog.so-net.ne.jp/oshosina/2006-04-07
http://blog.so-net.ne.jp/oshosina/2006-04-08

私どもが「つくる会」の運動に関わったとき、セクトとしての「保守」の運動とは考えていませんでした。そもそも教科書が党派性に囚われていいはずがありません。われわれの主張はいずれ国民共通の理解につながってゆくに違いないとの確信を持って運動に入ってゆきました。それゆえ、支部HPの掲示板においても異論大歓迎の姿勢で臨んでいましたし、反対派の集会や講演会にものこのこ出かけていったものでした。当初の支部方針はまずもって県民世論の結集でした。本部レベルでも多くの著名人の賛同を集めていたのに倣い、県内経済人、文化人、教育者等180名の賛同を集めました。しかしあの勢いも、運動の対象が教育委員会と議会請願に向けられることで、運動の矮小化、政治化を招くことになったのでした。いつのまにか本来の大きな器が小さな器にすりかえられてしまっていたのです。それ以降いろいろあがいてはみたものの覆水盆に帰らず、当初の勢いを呼び戻すことはできぬまま、また9.11以降私自身の思いの変化も含めた情況の変容もあり、昨年秋後任を得た上で事務局長の席を去りました。その時用意した文書を転載させてください。

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◇反省 ― 6年間を顧みて ー

1.スタート時の思い (「新しい歴史教科書をつくる会」山形県支部HP「県民・国民の皆さんへ」http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8947/ken.koku.htm

 <勉強すればするほど世の中に反抗したくなる>
 
まじめに勉強すればするほど、日本という国が嫌いになる、日本の歴史や伝統がどうでもいいもののように思えてくる、人と人とのつながりを軽んじて孤立化へと向かう、 先祖も子孫も関係ない、死んだら終わり………戦後教育にゆがめられた深刻な結果です。かつての赤軍派も最近のオウムも戦後教育が生み出した鬼っ子です。彼らはみんな、学校の先生の言われることをよく聞いて育った優等生でした。素直であればあるほど素直さから遠ざかるという戦後教育の逆説に、いま本気で立ち向かわねば、家族が壊れ、地域が壊れ、国が壊れ、ひとりひとりの心の支えが壊れ、ひたすら経済的利害のみを信じて、刹那的欲望に従うことを良しとする獣の群れとなって、ただただ声の大きいもの、力の強いものがわがもの顔に振る舞い、それに処するにモラルは吹っ飛び、権謀術数渦巻く世の中、それこそ戦後教育がもっとも嫌ったはずの世の中になってしまいます。その兆候は、もういたるところに現れています。

<日本人であることが嫌になる歴史教科書>

 いま学校で使われている歴史教科書をご覧になったことがおありでしょうか。どの教科書を見ても明治以降の歴史は、民衆の反抗や朝鮮人が「善」で、日本の政府はつねに「悪」です。朝鮮の日本からの独立運動が詳しくとりあげられることはあっても、植民地支配を進める当時の列強諸国に伍してゆかねばならない日本の厳しい立場や、やむにやまれず戦争に追い込まれて行く指導者たちの苦悩については全く触れられてはいません。国を愛する気持ちはおろか、祖先を敬う気持ちも生まれようがない歴史教科書なのです。現代日本の安定感の喪失、未来展望の欠如感は、多くここに起因します。とりわけ、すっかり希薄になってしまった道徳心の回復には、まずもって自己につながる誇りある歴史と伝統の認識が基本であることを思うとき、この歴史教育の立て直しを図ることこそが、日本の現実を憂えるわれわれにとって急を要する極めて具体的な課題と考えるのです。

<「心の先進県」に >

こうした現状をふまえ、歴史教科書の不健全さを正すべく平成8年に始まった新しい歴史教科書をつくる運動は、多くの賛同者を得て平成9年1月「新しい歴史教科書をつくる会」が結成され、現在新たに作成された中学校社会科歴史・公民の教科書が文部省で検定中。平成13年の3月には私たちも手にとって見ることができるようになります。こうして文部省の検定を通過した教科書は、何種類もある中から各市町村教育委員会によって審査採択され、児童・生徒に渡ることになるわけですが、その採択のための運動を推進すべく全国47都道府県に支部が設立されております。「新しい歴史教科書をつくる会」山形県支部は、平成11年9月に全国で31番目の支部として結成され、現在まで活発に運動を進めてまいりました。 三世代同居率が全国トップレベルのわが県は、日本の文化、伝統を大切にしてきたお年寄りに守られて、戦後の精神的混乱の中にあっても比較的日本本来の良さを保ち続けてきている県といえます。そうした県民性を基盤に、県では「心の教育」(その提唱者は「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長である高橋史朗明星大教授です)を推進しております。それに加えて、全県下で健全な新しい歴史・公民教科書が採択されるならば、私たちの山形県は確実に「心の先進県」となれるにちがいありません。 不幸な敗戦からすでに55年、「運がいいだけの平和な時代」(小林よしのり)がそうそうつづくわけもありません。過去の日本の苦難の時代を知る人がどんどん少なくなっている今、この運動の盛り上げこそが、日本が正気を取り戻すことができるかどうかの最後のチャンスと言っても過言ではありません。よろしくご理解のほどお願い申し上げます。

2.本部方針提示に伴う県内運動の変化(平成14年第4回総会「1年間の総括」)

平成8年にはじまり、平成9年1月結成された「新しい歴史教科書をつくる会」が主導した教科書改善の運動は、その後47都道府県に支部が結成されて全国的な気運となって盛り上がりました。山形においては、平成11年9月に「新しい歴史教科書をつくる会」山形県支部が発足し、運動が進められました。しかしながら昨年夏、結果として全国でも1%にも満たない採択率。新たな展望の模索が始まりました。    

われわれは本来、敵と味方があり、勝ち負けを迫られるような政治運動として教科書改善運動を始めたのではありませんでした。右か左かという問題ではなく、あたりまえに考えればだれでもそのおかしさに気づいてくれるという思いから出発した運動でした。みんなが気づきだしたら運動はひとりでに広がってゆく、しかし、そう簡単ではなかったようです。
山形においては、教科書採択の現場でわれわれの教科書は「扶桑社版の採択はありえない」という暗黙の前提があったかのように、議論以前の問題でした。なぜそのような「暗黙の前提」ができることになったのかについてはわれわれの運動の進め方にも反省すべき大きな点がありました。
ふりかえって最も悔やまれるのは、われわれが県内議会に提出した議会への請願趣旨の文面です。
「義務教育で使用する教科書の採択事務は、次代を担う子供たちの教育における極めて重要な公務であり、教育委員会の重要な任務であります。しかるに、本県における採択の状況は、下部機関が絞り込んだ候補教科書を単に追認するだけという制度の形骸化が常態化し、教育委員会制度の主旨に照らして正常に機能しているとは言えない実情であります。
 この現状を鑑み、採択事務の制度・運用を本来の姿に戻し、健全な日本国民を育成にするにふさわしい教科書が採択されるようにするために、以下の事項について請願いたします。」

 請願採択率においては、県内議員各位の絶大な支援のもと、他支部に決してひけを取らなかったとはいえ、この文章が教育委員会を敵にまわしてしまいました。われわれに反対する側と教育委員会とを結束させる結果を招いてしまったのでした。 山形において、われわれの教科書が採択過程の中でほとんど問題にされることもなかった背景にはこの失敗があったことを強く反省しています。

 われわれは、「つくる会」と言っただけで煙たがられるような、議論以前の「空気」を変えることから始めなければなりませんでした。昨年(平成13年)の採択ゼロの結果を受けたこの1年間の活動は、色眼鏡で見られるようになってしまっていた「つくる会」自体としての活動ではなく、「戦後日本の見直し」という志を同じくする組織、同志と連携を図りつつの活動であったことをご理解いただきたいと思います。

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以上の資料をもとに、全県的な教科書改善の盛り上げを図り、県下で影響力のある経済界、教育界、文化人180名の賛同を得ていた山形県支部の運動が、教育委員会に焦点をあてた本部方針によって方向の転換を余儀なくされ、結果的に政治の渦に巻き込まれてしまったことの悔しさを語りました。その流れは、9.11テロ後の自衛隊イラク派遣以降、現在の日本の政治的現実の前に「良心」は失われ、国民的合意を得るには程遠いごく限られた人たちだけの運動へと矮小化されていくことになりました。今への歩みは、最初の採択戦における本部方針の失敗にあったのではなかったか、というのが私の認識です。それはひとり「つくる会」としての失敗だったのではなく、日本人の共通意思形成のチャンスをみすみす逃してしまったという歴史的責任をも負うべき失敗だったのではなかったか、そもそもこのことを西尾先生に申し上げたかったのです。

Posted by: めい at 2006年05月22日 02:06
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めい様
 
 昨日の貴方と布袋和尚様との往復投稿を見落としていました。
 また、改めて、私宛投稿中の「何度も書いて」 こられたことを読ませて頂きました。
 私に、認識不足があったようで、失礼の段、お許し下さい。
 それにしても、貴方の支部の活動の経験は、たとえ失敗であったとしても(いや、失敗であればなおさらのこと、)全国の運動の経験として検討され学ばれるべきだと痛感致しました。
 取り敢えず、御礼とご挨拶まで。

Posted by: 東埼玉人 at 2006年05月22日 22:30
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東埼玉人様

今思えば、当初より「つくる会」に対して過大な期待、ないものねだりがあったのではという反省もないわけではありません。というのも、山形県における教科書問題への関わりの原点は、従軍慰安婦記述削除問題をめぐって平成9年3月に県教組と共催で行ったシンポジウムでした。その時の議論はたしかに平行線ではあったものの、現場の先生方と共通の土俵で議論したことは、教科書が学校現場を抜きには考えられないものである以上、われわれが運動を進める上でまさに「原点」として意識されていたことでした。しかし、あのような形のシンポジウムは、その夏似た形で山形市で開催しただけで他県に波及することはありませんでした。当時それなりの反響があっただけに、あの流れを広げることができなかった力不足への反省は反省として、そうした体験をもっていたことが山形における特殊性といえば言えるのかもしれません。それにしても、「つくる会」の当初の勢いは、私どもに過大な期待を抱かせるのに十分だったのです。

Posted by: めい at 2006年05月23日 08:15
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(転載おわり)

第一次採択戦の真っ只中、当時教科書改善連絡協議会運営委員長の伊藤哲夫日本政策研究センター所長が講演にお出での折、「われわれの教科書が採択されたとして、教育現場での混乱の心配はないでしょうか」と尋ねたことがありました。「大丈夫、その心配には及ばない」という非常に楽観的な答えだったことにかえって不安を覚えたことがありました。そういえば、われわれなりに向山洋一氏のTOSSグループhttp://ja.wikipedia.org/wiki/TOSSに接触を試みたこともありました。


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