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田中末男著『宮澤賢治〈心象〉の現象学』 [宮沢賢治]

前回の結び、≪われわれの最大の武器は、自らを「自然」に食べさせてしまうことも厭わない「土人」性なのかもしれないと思いだしているところです。≫

こう書いて、いま毎日少しずつ再読中の田中末男著『宮澤賢治〈心象〉の現象学』(洋々社 平成15年)について書きたくなった。

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久遠のいのち 

賢治にとって法華経のもつ決定的意味は-父親との確執における戦略的要因を度外視すれば、これが賢治の内に〈根源的エネルギー〉を解放したことである。

 ちなみにこの根源的エネルギーは、のちに「農民芸術概論綱要」において「宇宙意志」という名が与えられる。あるいは仏教的に「まことのちから」ともいっている。もちろん、わずか十八歳の青年に法華経の精神が明確に理解されたとは思えない。だが直観的に賢治はその真髄を掴み取った、というよりそれに閃光のように打たれたといったほうが適切かもしれない。

 法華経の根本思想は、<久遠のいのち>である。賢治はすでに山野の渉猟のなかで、大自然のなかにこの<いのち>が漲り、溢れているのを体感していた。それを法華経を読んで「ああ、このこと」とばかりに思想的に納得したのである。そして自已と大自然とを包括する統一的コスモロジー(宇宙論)を開示、というか啓示された。この宇宙は、無限に開かれ、しかもたんなる静的で空虚なものではなく、エネルギーが充満した世界(コスモス)である。要するに、宮澤賢治はどん底の心的状況のなかで、その底を断ち割って射してくる一条の光明にうたれた。自己の意識性を超えた存在―大いなる生命(いのち)―に逢着した。法華経は壮大・華麗なる饒舌といってもよい。賢治を感激させたものは、細かい教義内容自体よりも、イメージがつぎつぎに自己増殖して、その途方もない宇宙論を展開して見せてくれたことにある。存在そのものから発する光明に打たれ、「生に向って然りと言うこと(das Ja-Sagen zum Leben)」(二-チェ)に目覚めたのである。

 しかもその肯定は、たんなる直接的なそれではなく、どん底に突き落とされたなかで掴み取った大いなる肯定である。これはよだかを「もう一尺」というぎりぎりのところで支える力である。「醜い」よだかが、醜いままでなおかつ大いなるものに包まれていること、修羅が修羅として、そのまま春の陽光に曝されている。のちにこの根本的状況を、賢治は〈春と修羅〉と呼ぶことになる。

 これを主体的にみれば、ハイデッガーを借りていうと、「わたくしの内から、しかもわたくしを超えて、(aus mir, und über doch  )」(強調原文)という二重構造への覚醒である。賢治はこの光明が遍在し、しかもこの醜い自己を貫いているという根本直覚を終生手放さなかった。いや、正確にはこれのほうが賢治を手放してくれなかった。これは、賢治自身の内から生起するがゆえに、賢治が全面的に責を負わねばならないと同時に、賢治を超えてくるものであるがゆえに、賢治自身どうすることもできないものである。

(p.44-16)

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3/19の結びで、「原理的思考といえば私にとってはまず第一に吉本隆明であり、その極北には宮沢賢治がいる。」と書きつつ、そもそも原理的思考が何かを言葉にできるほどわかっているわけではなく、ずーっと頭の中でころがしているところで出会ったのが田中氏の文章だったのだ。

≪賢治自身の内から生起するがゆえに、賢治が全面的に責を負わねばならないと同時に、賢治を超えてくるものであるがゆえに、賢治自身どうすることもできないものである。≫

ここが、宮沢賢治が「原理的思考の極北」たるゆえんなのか。極北がゆえにラジカル(根源的)である。田中氏は言う。

≪「どんぐりと山猫」は、いわゆる「どんぐりの背比べ」をヒントに着想されたものであろうが、「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなつてゐないやうなのが、いちばんえらい」という判決で、「あらゆる価値の価値転換(Umwertung aller Werte)」(ニーチェ)をまず試みたものといえる。ここでひとまず既成の価値をご破算にして、あらためて出直そうという決意が示されている。だから(童話集『注文の多い料理店』の―引用者註)冒頭に置かれたのであろう。

 このことは、賢治が最初(『宮沢賢治〈心象〉の現象学』序文―引用者註)に挙げた手紙のなかで、自分は『春と修羅』において「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し」たと述べていることにつながる。たかが詩集でこんな大言壮語、と思われよう。だが、賢治は心象スケッチによって、「コペルニクス的転回」を、現代風にいえば「パラダイム変換」を果たして、「重苦しい重力」からの解放をめざし、その生きる世界を限りなく拡張しようと試みた。宮沢賢治の心象スケッチは、このような文明論的射程をもっているのである。

  新しい時代のコペルニクスよ

  あまりに重苦しい重力の法則から

  この銀河系統を解き放て        (「生徒諸君に寄せる」)≫(p.85ー86)

「重苦しい重力」はいよいよその切実さを増しているとはいえないか。(瀬戸内寂聴氏が今朝のテレビで「82年生きてきたが今がいちばん悪い」と言っておられた。)

 田中氏は学生寮でも一緒の一年後輩。30年来音信もなかったのだが、突然この本の贈呈を受けた。一読、私にとっては、宮沢賢治論の最高峰に思えた。すぐにも感想を書くべきだったのだが、もう一度じっくり読んでと思っているうち3年が過ぎた。再読了後あらためてこの本を取り上げたい。文字通り同じ釜の飯を食べ、一つ屋根の下同じ空気を吸って過ごした者同士の親近感を超えた「すごさ」であることを確認してみたいと思っています。

 


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